ガエル記

散策

『ソフィーの選択』アラン・J・パクラ

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ずっと以前に観ていた、と思っていたのですが観始めても記憶が戻る感覚がなかったのでもしかしたらまったく観ていなかったのかもしれません。

なにかとよく引き合いにされる映画なので観たと思い込んでいたようです。

一度観たら忘れられない名作と謳われているのですからそんな思い込みもおかしなことですが。

 

にもかかわらずアウシュビッツの悲劇を描いた名作と認識していたこの作品を今観終わって不思議な気持ちになっています。思っていたものとまったく違う内容だったからです。

この映画はいったいどのように記憶すべきなのでしょうか。

 

かなりの長尺の物語を丹念に描いた美しい映像であるのは確かです。

しかしそこにあるのは奇妙な何かでした。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

ソフィーの選択』(先日の邦題とは違い)秀逸なタイトルです。

物語の中でソフィーは大きな二つの選択をした、と観る者は感じるでしょう。

ひとつはアウシュビッツで彼女はふたりの我が子のどちらかを死に追いやる選択を迫られました。

この場面ほど恐ろしいものを他で見つけることは難しいでしょう。なんという残酷な状況を考えたのか。

もうひとつは物語の最後に彼女はふたりの男性のどちらかを選ぶ羽目になります。

精神が破壊され異常なほど愛情を示したかと思うと次には烈火のごとく激怒し暴力をふるう男ネイサンか作家志望で頼りない年下ではあるけれど南部の田舎町でのんびりと暮らす約束をして愛情深いスティンゴと。

 

しかしソフィーがネイサンを選ぶのは当然だったのです。

その理由を多くの方は「子供を死に追いやった罰として彼女は自分に過酷な運命を選んだのだ」としていますが私は問題はそこではなくソフィーの父親がネイサンそのものだったからだと考えるのです。

この物語は「アウシュビッツの悲劇」ではなく「毒親に育てられた子どもの悲劇」なのです。

 

私はネイサンがソフィーを過酷に責めたてるのを奇妙に思いました。そしてそこから何故ソフィーは逃れようとしなかったのでしょうか。

 

ソフィーは精一杯尽くしているのにネイサンは彼女に「お前には貞節がない。上司と寝たのか、スティンゴと何をしていたのか」と罵ります。その本人は幼少期に精神を病みそれ以来(仕方ないこととはいえ)自分で作り上げた嘘の世界で生きてきました。

ソフィーの父親は厳格で娘のソフィーを自分の規格にはめ込み完璧な人間になることを課します。そんな父親をソフィーは深く愛していたというのです。

しかしその父親はユダヤ人の絶滅を提唱する人物だったのです。

ソフィーは父親に頼まれた原稿のタイピングをミスし「お前には安物の知性しかない」と罵られます。

ソフィーは愛する父親から罵られたように愛する男性からも罵られています。

そしてソフィーの選択は先に挙げたふたつだけではありません。

ソフィーは(そしてもちろん私たちは)人生において常に数えきれない選択をし続けなければなりません。

そもそもソフィーがネイサンから助けられたとはいえそのまま彼に依存しそれを愛だと思う選択をしてしまった(たぶん彼女にとってはそれは当然の成り行きで選択をしたという思いもないのでしょうが)のです。

そしてさらにそもそも彼女は自分に父親の思想と行動を悪だと思いながらも戦わないまでも逃げ出す選択をしなかったのです。

 

とはいえ現代であっても生活を放り出して逃げ出せる人間はそういないというのはわかります。だとしてもソフィーの選択は常に常に気弱なものであるのが現在の私にはあまりにも惨めに思えました。

 

そして語り手であるスティンゴはソフィーの唯一の希望の選択肢として描かれているのですが果たして彼は希望なのでしょうか。

 

彼の行動とソフィーへの提言はいわば脅迫です。

「DV男のもとに帰れば殺される。僕の妻となって南部で暮らせば幸せになれる」

南部では夫婦でなければ一緒に暮らせない、というのですがそんなのはフリをすればいいだけです。愛しているからこそ結婚したくて言ってしまった言葉だとも言えますがやはりそこに男性の優位性で女性を呪縛しようとする暴力を感じてしまうのです。

もしソフィーがスティンゴを選択していたとしても数年後にはまた彼も同じような暴力男になってしまったのではないでしょうか。

もしくはほんとうに優しい彼から逃げ出し再び暴力男を選び出し酷い目にあう生活に飛び込むのです。

 

ソフィーは常に虐待される選択をしていると私は考えます。

そしてそれは彼女が暴力性を持つ父親いわゆる「毒親」に育てられたからなのです。

 

ソフィーの選択』は原作者・映画監督が狙ったのかどうかはわかりませんが(果たしてどうなのか)「アウシュビッツ劇物語」ではなく「毒親問題物語」でした。

 

そしてまた私はこの原作者スタイロンとパクラ監督がなぜ『ソフィーを選択』したのか、と考えずにはいられません。

この物語は歴史的事実から生まれたものとはいえやはり作り物には違いありません。

他にも多くの描かれてもいい題材がある中でなぜ『ソフィーを選択』したのか。

美しく聡明でありながら男性性なしに生きていけない女性ソフィー。

儚げで守ってやらねば消えてしまいそうな美しいソフィー。

ソフィーは美しさとか弱さゆえに至る所で男性とのかかわりを持ってしまいます。

恐ろしい選択を要求されたのも美しさと弱さゆえです。

彼女の運命を決めていくのはいつもその美しさとか弱さなのです。

原作者も映画監督も男性ですが何故彼らはソフィーでなければならなかったのか。

 

昔この映画を観ていれば私もそこに疑問を持たなかったかもしれませんが現在であれば「なぜ?」と問わずにはいられません。

 

ソフィーを素晴らしく演じたメリル・ストリープは聡明な人です。

彼女はソフィーという女性に疑問を持ちながら演じたのではないのでしょうか。

ソフィーは常に選択を迫られ常に何も選択できない人間なのです。

日本語翻訳では「娘を」と言っているけど実際は「小さい方を」とだけ言っているそうです。彼女ははっきりと「娘を」と選択はしなかったのです。

 

このタイトルはむしろ皮肉と言っていい気がします。

いわば『ソフィーは絶対選択しない』とすべきなのかもしれません。

 

もちろん時代もあります。

物語の舞台も映画化された時期でも。

世界各地で女性は弱い立場の時代でありました。

女性は見た目の美貌と男性を喜ばせる性格が重要な時代でした。

そういう意味でソフィーの描き方は間違ってはいないのです。

しかし現在の目で見てこの描き方はやはり間違っています。

 

ソフィーの選択』はこうあるべきではなかった。

戦時中の物語はさすがに私にはあまり言及できません。あまりにも世界が狂っているからです。

しかし戦後のアメリカでの物語でソフィーは幸福になる選択はあり得なかったのでしょうか。

毒親の呪縛を解き放つことは許されないのでしょうか。

 

そしてスティンゴは別の考えを持つべきでした。

 

もうひとつぎょっとしたものもあります。

映画の中でスティンゴが「こうしてブルックリンでの自己発見の旅は終わった」というのです。

この作品はスティンゴ青年の自分探しの旅のエピソードに過ぎなかったのでした。

この作品は、南部の田舎から作家を目指して上京した未熟で無知で世間知らずの青年が過激に知的に思えたかっこいい男性が実は狂っていると知り、夢見るように美しい女性が若造には思いもかけない過酷な運命を背負っていた事実を知る、という青春体験記映画だったのです。

そうでなければあのラストのセリフはおかしい。

スティンゴは体験したと思っていますがどちらも「聞いた話」でしかない、のでした。

ネイサンの狂気も聞いた話、ソフィーの選択の恐怖も聞いた話、です。

それはひとりの青年が語り手となる形式だからこそなのですが、確かに私たちはかつての戦争の物語は聞くことでしか得られません。

 

そしてその中で考えることだけができるのです。

 

そういう意味でこの映画はやはり重要な作品だと思えます。

 

 

 

 

 

 

『コンフェッション ある振付師の過ち』スティーヴン・ベルバー

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画像が示すとおり原題は『match』です。そしてそのタイトルが示す通りの素晴らしい内容だと思います。

『match』という言葉の意味は様々にあります。

火をつけるマッチをはじめ対決する・配偶者・ライバル・結婚・調和するなどなど。

たぶんこの一つの言葉に多くの意味を持たせていることは観ていけばすぐに理解できます。

しかし邦題は『コンフェッション』という一般的日本語としては理解しがたいカタカナ英語に変更されました。コンフェッションの意味がすぐに解る日本人はどのくらいいるのでしょうか。


一方「コンフェッション」となると「(罪、恥じていることの)告白・懺悔」の意味です。

この二つの言葉の違いは映画を観終われば思い知ることになります。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

この映画を若い時に観たら何と思ったでしょうか。それはもう解りがたいものです。

しかし年を取った者であればこの作品の重要さは感じ取れるはずだと私は思います。

現在の私自身は幸運にも家族と暮らしていますが一人で人生を送る人が多くなってきた昨今主人公に共感する度合いはさらに強いのではないでしょうか。

 

本主人公トビーは自分の人生を選択しそれほど裕福ではないけれどもまずまずの生活を得てきました。バレエダンサーとして活躍しその後は指導者として67歳の今も働く人生です。

しかし彼は22歳の時に性関係のあった女性グロリアが妊娠出産して「この子の父親になってほしい」と乞われた選択肢があったのでした。彼は華々しいバレエの道を捨てることができず、一方バレリーナだった彼女はその道を捨てて子供を育てた、という過去があったのでした。

 

そして今年老いた指導者であるトビーはある夫婦からバレエに関するインタビューの依頼を受けます。

対話が進むうちにインタビュアーの夫・マイクはいら立ちを募らせ「あんたは俺の母親を捨てた。あんたは俺の父親だったのになんの愛情も示さなかった」と爆発するのです。

実は彼こそがグロリアの産んだ息子だったのです。

 

戸惑いながらも反発するトビーを押さえつけマイクはトビーの口腔からDNAのサンプルを奪い取ります。

偽のインタビュアーを演じていた妻のリサはマイクの暴力を咎め検査のために飛び出した夫を追わずトビーに寄り添うのでした。

 

そしてここから実はリサも夫マイクとこじれた関係になっていることをトビーに打ち明けるのです。

 

この展開が素晴らしいと思いました。

リサは臆病になっていてトビーがバレエに誘っても「私は絶対に踊れない」と拒否します。

しかしトビーとの会話を交わすうちに勇気をもってバレエのポーズをとるのです。

 

その後戻ってきたマイクとトビーは父と子の会話を始めます。

トビーは最初からマイクのことを息子だと認識していて彼が25年前にフェンシングで優勝した新聞記事の切り抜きを大切に保管していたのでした。

それを見たマイクは父親の愛を初めて感じるのです。

「今更過去に戻ることはできないが孫を抱くことはできる」とトビーはふたりに告げます。

 

3人は絡まった糸をほぐし終えたかのように(これがセーターの編み物につながるのか)幸福感を覚えて翌朝の食事を約束するのでした。

 

そして翌朝DNAの検査結果が知らされます。

なんとマイクとトビーのDNAは「マッチしなかった」のです。(ここにもタイトル回収が)

つまり二人は親子ではなかった。

昨夜のあの激しいやり取りの後の愛はなんだったのか。

マイクたちに事実を告げられたトビーは震えるほど動揺します。

やっと息子を得た、家族の愛をつかんだ、と言う感動は全部なくなってしまったのです。

しかしその後、マイクとトビーそしてリサは再び温かい愛情を感じます。

例えDNAがマッチせずとも彼らは家族になりうるのです。

 

一晩だけの息子は去っていきますがその未来はもう壊れたままであることはないのでしょう。

そしてトビーは陽の光の中で友人に電話をします。

これまでトビーは友人の山小屋の誘いを面倒だからとずっと断り続けてきました。

しかしもうトビーは一人きりで人生を歩むのはできなくなったのです。

 

今ネットを眺めていても一人きりの生活を送りそのことを邪魔されたくない、ひとりきりでなぜ悪い?と言う言葉を目にします。

実は私自身もその側なので気持ちは凄くわかるのです。

トビー自身その気軽さに浸り続けてしまっていました。

他人との交わりは前の晩のような対決でもあるのです。

しかし対決があるからこその幸福もあります。

例えば子供を産み育てることは自分の人生の大半を犠牲にすることでもあります。

がそれゆえにそこから生まれてくる幸福は言い表せないほどに大きい。

その大きな幸福を得るためには自分の時間を失いもする。

等価交換という言葉では足りない大きな損失と大きな幸福。

それらを単純に数字に置き換えることは無理なのです。

それでも目の前の小さな幸福のために小さな犠牲も払えずに過ごしてしまう。

果たしてどちらがいいのか。

それは自分で決めるしかないのです。

 

そんなことを考えさせてくれる良い映画でした。

 

もともとは舞台劇だったものを映画化したものだそうです。

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『イノセンス』押井守

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2004年製作。

意味をつかみにくい言葉を選択した会話劇の形になっているせいもあって難解な作品と思われているようですがそれらはすべて本体を隠すための隠れ蓑なのでそれこそイノセンスに観ればごくごく当たり前に純粋なラブストーリーでありました。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

本筋は思いきりクラシックな一途な愛がテーマになっていました。

バトーの草薙素子への思いは恥ずかしくなるくらい純情な熱愛です。にもかかわらずその恋心を打ち明けられず胸に秘めているだけの姿は思いきり「寅さん」そのものなのですが押井守監督としては「寅さんのオマージュですか」と言われるのは忍び難くてこのようなペダンチック会話劇に仕立て上げたのでしょう。

 

しかしそれを含めこのアニメ映画を観ているといろいろなことが解ってとても面白いのでした。

まあこれも当たり前のことですが無論ここに描かれるシチュエーションは押井守監督の好物に満たされているわけです。

胡散臭い中華街、ヤクザとのドンパチ、少女とのセックスを望む嫌らしい男ども(と認識すること)そして男の純情を謳いあげるハードボイルド。

 

そうした感覚は私もやや共通するものがあるので理解しやすくはあるのです。

悲しいのは肉体をさらりと捨てた草薙素子と比較して男性であるバトーは肉体を捨てることには強い抵抗があるということでしょう。

 

それは観ている者たちに対しても問われています。

本作の画面にあふれる人形の裸体を見て人はどのように感じているのでしょうか。

若く美しい女性いや少女の裸体のイラストが日本のコンテンツにはあふれています。どこを見ても何を見ても裸体に近い少女たちがイノセントな笑顔を向けてくるのです。

しかし本作での少女の裸体はそれらとは違うと感じるはずです。

不思議ですね。

「少女の裸体のイラスト」であるのは同じなのですが違うとは。

一般の日本コンテンツの少女イラストはあくまでも少女を模して観る者に欲情を掻き立てようと誘うのですが『イノセント』の中の少女たちは同じ「イラスト」でも生命のない人形なのです。

それでもバトーは草薙素子の意識が入った一体の人形の裸体に上着をかけて隠すという「優しさ」をせずにおれません。

それに気づいた少佐は苦笑します。

他の人形たちとまったく変わらない一体に過ぎないのに?

他のコンテンツの少女たちにもこの「優しさ」は必要なのではないでしょうか。

本作に登場する少女人形たちはクラシカルな造形で現在の男性たちの「萌え」を引き出すにはズレています。しかも激しい乱闘で彼女たちの体は破壊され醜悪と言える状況を晒します。

その様子は憐れで悲しいものです。

 

本作では女性の性が惨たらしく消費されていきますが本作の少女の裸体でそう感じることはできるのでしょうか。

人によってその感覚には差異がありますがコンテンツに溢れているそれらは所詮人形(ひとがた)にしか過ぎないのですがそれにもかかわらず私たちはそれらを見て心が痛みます。

バトーのような優しさこそが欲しいと思うのです。

 

それにしてもバトーもまた悲しい存在です。

彼は草薙素子に恋していますがその恋心を言葉にするのが怖いのです。

しかもその人はもう実体ではないのがわかっています。

バトーは柄にもなく犬を飼っています。バセットハウンドという犬種です。

その犬の世話をしている時だけバトーは生身であるような気持ちになれるのです。

そしてその犬が寄りかかる体重を感じる時だけ生身の温かさを感じているのでは、と思うのです。

 

 

 

 

『ロボコップ』ポール・バーホーベン

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先日数日にわたって観続けました『決定版!SF映画年代記』の中でどうしてももう一度観たくなった筆頭『ロボコップ

ヘンテコ映画と記憶していたのですが作り手の深い思いを知ってもう一度確かめねばと思いました。

結果凄い映画でした。

納得しました。

 

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

残酷な警官殺し。愛情深い正義漢マーフィーの手を銃で吹き飛ばす、という正視に耐えないあの場面はキリストの聖痕であったのですね。

そして体に受けた銃弾は彼の死を確かめるための槍だったということでしょうか。

 

マーフィーが死後ロボコップに改造された顛末で多くの男たちの身勝手な行動が描写されていきますがそんな中で彼を忘れずに助けようとしたのは女性警官アン・ルイスだけでした。

これもキリストの男弟子たちが皆彼を見捨てたのに女性だけがイエスに付き添ったエピソードと重なります。

 

そして今観ても、というか今観るとさらに彼女の描き方が独特で素晴らしいかがわかります。

マーフィーはすでに愛する妻子がいる男性でルイスとは異性の相棒として描かれています。ルイスはマーフィーの拳銃さばきが愛息子を喜ばせるためのアクションだということを聞いていてそのためロボコップが同じ派手な銃回しをしたことに疑念を持ったのでした。

ルイスとマーフィーの関係が友情というか相棒愛と言う形で描かれているのはとても気持ち良いものでした。

 

話題にもなる残虐性は今観てもかなりえげつなく特に最初に書いたマーフィーがてを吹き飛ばされその苦痛に悶えながらよろよろと逃げようとするのを悪党たちが嘲笑う場面はグロテスクに過ぎます。

しかしそれがキリストの磔刑を意味しているのならそれがいかに惨たらしいものであり苦痛であったかを表現している意味のあるものになります。

映画内で行われる犯罪があまりにもすべてが下品で猥雑なのですがそのためキリストたるロボコップに孤高の品格を感じます。

下種な男たちにレイプされそうになった若い女性を助けた時も生前妻帯者だったロボコップは抱き着かれて生真面目さを崩しません。子どもたちに優しいのはやはり息子を愛していた記憶が残っているからなのです。

 

ひたすら正義の警官の任務を遂行するロボコップが身勝手な上司たちの内輪もめのために殺されそうになる場面は胸が痛みます。

そしてロボットに課せられた条件付けのために悪党を殺せない危機が社長の「ファイヤー=クビだ!」の一言で解除されてしまう、というオチはなかなかのものでした。

 

「君の名は?」

「マーフィー」

は名セリフでした。

アイデンティティはなによりも大切なのです。

そせこれがキリストたるロボコップの復活した瞬間なのでした。

 

 

うーむ。観なおす価値ある作品でした。

 

 

『決定版!SF映画年代記』第4回 Time「タイムトラベルへの扉」

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画像は映画『タイム・マシン』です。

 

タイム・トラベルという題材は現実にあり得なく馬鹿々々しいと思うのですが同時に人間性を問える興味深いものでもあります。

どの時代どの時間に行くのか何を見ようとするのか何を変えようとするのか。地球そのものか、人類の歴史か、自分自身を優位にすることなのか。

それとも知るだけで変えることはできないのか。

 

有名な作品に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』があり今でも非常な人気があります。そして現在も『東京リベンジャーズ』が話題となっていますがどちらにも興味も持てず好きになれないのはやはりその目的なのです。

 

私が衝撃を受けた作品は楳図かずお漂流教室』です。

そのタイムトラベルは恐ろしいものでした。

そして元の場所へ戻るのは至難でした。

このマンガは1970年代の作品なのに出会えたのはつい最近のことでした。

つまりすでに50年近く作品設定の恐怖時代に近くなってしまったことになります。

そしてその可能性はますます高まっているように思えてなりません。

そんな中でも登場するこどもたちは世界を良くしたいと試行錯誤するのです。

しかしその試行錯誤は絶望的とも言えます。

ここまで凄まじいタイムトラベルものは稀有でしょう。

絶対に体験したくないタイムトラベルものなのです。

そこが他の作品とは大きく違うのです。

 

 

『決定版!SF映画年代記』第3回 Robots 「われらはロボット」

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第3回 Robots 「われらはロボット」     

こちらはわたしにとってもとても興味のある題材です。ここではロボットだけではなく人造人間そして人間自体が機械になる世界が紹介されていきます。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

ロボットはまだまだ現実生活に密着しているとは言い難いですがそれでも着実に社会が必要としていることを認識させます。

危険な仕事、過酷な仕事をロボットに担わせたい願望は留まることはないでしょう。

そして疑似人間に対する思索は『フランケンシュタイン』の時からすでに深く行われてきました。

未来社会にはロボットやアンドロイドヒューマノイド、そして人間のサイボーグ化が行われないことはないと断言できます。

攻殻機動隊のような義体を人間が拒絶することはあり得ない、と私は思っています。

より高度により精密により美しくなれるのなら人間は必ずその肉体を自分のものにするでしょう。もちろん個人的に斥ける人はいるでしょうが。

 

映画に登場する優秀なロボットの筆頭が『禁断の惑星』のロビーです。

私もつい先日初めて観ていっぺんで大好きになりました。

物語はシェイクスピアの『嵐』を元にして作られたというしっかりした筋立てでもあります。ロビーほどキュートなロボットはなかなかいないでしょう。

宝石からドレスまで作ってくれるという超優秀な能力を持ち侵入者には容赦しない是非家庭に一台欲しいヤツです。

しかしこういうロボットがいたらマジで人間結婚しないと思います。

 

サイレント・ランニング

ヒューイ・デューイ・ルーイというディズニーの子どもアヒルの名前を付けられたロボットが登場するそうです。未見です。

といってもルーイは名付けられる前に紛失されるらしいのですがヒューイ・デューイのロボットには脚を失った俳優が中に入って演じたとの説明とともにロボットの隙間から顔を出した男女が。

ふたりの若さと美しさにしばし言葉を失いました。ベトナム戦争で負傷したとのこと。この話自体が映画のようです。

そしてこの「小さな人間」が入ったロボット、というアイディアで生まれたのがR2D2なのです。

 

大好きな『スターウォーズ』で特に好きなのが様々な物語で活躍するロボットたちです。

R2は最初から大好きでした。C3POは小憎らしいですがR2は可愛いからです。

しかしC3POを演じたアンソニー・ダニエルズ氏は魅力的な方でした。素顔で演じて欲しいくらいです。

 

600万ドルの男』はほとんど観ていませんwあまり魅力を感じませんでした。

ロボコップ』は観たと思うのですがこのドキュメンタリーで訴えられているような核心をまったく受け止めていませんでした。

己を恥じるしかありません。

これはキリスト復活の物語だったのですね。

もう一度観てみます。

 

2001年宇宙の旅』のHAL忘れられない声です。

確かに気の毒なコンピュータでした。

 

『A.I.』

甘いSFと言うべきなのでしょうか。

子どもがロボットになった途端、認識はまったく変わってしまうような気がします。特にハーレイ・オスメントくんの困ったような顔が心理作用を起こしてしまうのでしょうけど。

こんな顔のロボットがいたらとても無慈悲にできません。

 

そして最高のSF映画の一つ『ブレードランナー

レプリカント

宗教と魂。

 

マトリックス

現在新しい映画が公開されていますね。私が観れるのはもう少し先になりますが楽しみです。

人間が機械を使うのではなく人間自体が機械に組み込まれてしまう。

 

未来がどうなるのかは誰にもわかりませんが人間はその先を知りたいという欲求をとめることはできません。

私が生きている間にどこまで世界が変化していくのか。

やはり楽しみなのです。

 

 

 

 

『決定版!SF映画年代記』第2回 Invasion「異星人との遭遇」

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第1回でも2回でも出演されているなんとなく日系かなと思われる人物ですがなぜか名前が出てこなくて誰?と思って調べたらミチオ・カク加來 道雄)という名前の理論物理学者のかたでした。思った通りの日系アメリカ人のかたでした。んもう、名前出してよね。

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

第2回 Invasion「異星人との遭遇」

『ボディ・スナッチャー』『遊星からの物体X』にはあまり反応できないのですが『Xファイル』は私もはまりました。

モルダー&スカリーは男女バディものとしても秀逸なのではないでしょうか。

日本政府が宇宙人とのコンタクトなどの秘密を隠しているようにはとても思えませんが(それが手だろうか?)

 

そして日本映画の誇り『ゴジラ』が紹介されます。

シリーズ作品には興味が持てませんがファースト『ゴジラ』映画だけは申し分ない名作です。私は後年大人になってやっと観たのですがあの映像は衝撃でした。当時の子どもたちのトラウマになってしまったのは当然です。私も子供時代に観ていたら何度も悪夢をみてしまったでしょう。

このドキュメンタリーでも賛辞されていたのは嬉しいことです。

 

続くスピルバーグの『ジュラシックパーク

実は私はさほど恐竜に興味が持てなくてすぐには観なかったのですが後で観てやはり面白い作品だと感じました。

 

そしておかしいことですが先日も書いたように『未知との遭遇』の良さもすぐにわからずむしろ大人になってから面白さを認識しました。

そしてさらに『E.T.』も10代後半に観たのですがいまいちで最近になってから良さがわかってきました。

スピルバーグの凄さが私には理解しにくいものだったようです。今は素晴らしいと思っていますが。

 

メン・イン・ブラック』も『第9地区』もはまることはできなかったのですが重要な社会問題だという確かだと解ります。