ガエル記

散策

『決定版!SF映画年代記』第1回 Space「宇宙 最初の開拓地」

f:id:gaerial:20211225052241j:plain

アマゾンプライムにて鑑賞中。

レビューにはSFマニアの方々が酷評しておられますね。

まだ見始めたばかりで自分自身どう思うかはまだわからずですが(先日の件もあり)今のところなかなか面白いです。

ルトガー・ハウワー、リチャード・ドレイファスとSFファンならまずは挙げたい名前が筆頭に登場してきます。『ブレードランナー』『未知との遭遇』ですね。

 

以下ネタバレですのでご注意を。

 

 

 

SF映像として『月世界旅行』からの『スタートレック

実は私は『スタートレック』は自慢するほどには知らないのですがそれでももちろんTV放送を幾つかは観ています。

数多くのSFアイディアを示唆してくれた作品ですが私は本作に登場する「注射」に憧れました。当時見ていた子どもたちは皆そうだったのではと思います。なにしろ服の上からで大丈夫だし針を刺すという野蛮なことなしに薬品を体内に注入できる優れものなのです。

これだけはできるだけ早く実現化してほしいと願いました。まだ無理みたいですけども。

そうしたSFアイディアだけではなく本作は人種差別を除く意識も見せてくれました。

TVドラマで黒人女性がこんなにも活躍したのは初めてだったとのこと。ウフーラは堂々とした美人で知的でかっこよかった記憶があります。

ここでの説明はありませんでしたがアジア人としては日系アメリカ人のジョージ・タケイ氏がカトウ(英語版ではスールー)という乗組員だったのはなんといっても誇らしかったです。

 

しかしその後SFに限らずアジア系アメリカ人がそれ以上の活躍をしているのかといえばそうは思えませんね。アフリカンの躍進にはとても及ばない。別に日系でなくてもいいのですが中国系でも韓国系でもそれ以外のアジア系でもそれほど活躍できてはいません。これはいまだに不思議でもあります。

 

次に大御所『2001年宇宙の旅』を挙げ次にこれに異を唱えるダーティスペースが並びます。

 

『エイリアン』は最も好きなSF映画の一つです。

その魅力の最も大きな功績はギーガーのクリーチャーデザインによるものです。それは揺るがせません。

 

次に紹介されたジョン・カーペンターダーク・スター』は未観賞なだけでなく知りませんでした。

カーペンター監督が『2001年宇宙の旅』に物申す映画と言っているのが面白い。しかしレビューでは「駄作」?と書かれています。気になりますな。

次の『ファイヤーフライ』というテレビドラマも未観賞まったく知らなかったですが日本ではほとんど見る機会がないようで当然でした。

宇宙西部劇というカテゴリです。少し観たい気もします。

 

火星三部作”著者キム・スタンリー・ロビンスン(未読・未知)は火星を人の住める惑星へと変えるアイディアをフランク・ハーバート砂の惑星』から触発されたと語ります。

アーシュラ・ル・グウィン『闇の左手』やっと知っている作品登場。

砂の惑星ならぬ氷の惑星と表現される架空の世界。

ここで描かれるのは地球人にとって極限と思われる厳しい環境だけではなく男女という性別への疑問でした。

この「性別」という題材は男性作家よりもはるかに多く女性作家によって描かれてきました。

日本でもこの題材は男性作家はあまり取り上げず女性作家によって多く描かれています。

男女の性が変化するものであったら、というアイディアは男性にとってはあまり好ましくないものであり女性にとっては魅力的なものだということなのです。

しかし地球上においても男女の性が入れ替わる例は多々ある事実です。

それが当たり前である惑星があったら、という話です。

 

 

アバター』なんとなく日本では大ヒットはしなかった感がありますが私はとても好きな作品です。

かなり人間に近いデザインだと思えるのですがそれでも日本人には受け入れがたい人間デザインだということなのでしょう。

日本では異世界転生というジャンルが非常に人気ですがその内容はほとんど自分たちの世界と変わらない価値観である、というのが条件のようです。

あまり異ならない異世界でなければ転生したくないのです。ヒロインが爬虫類だとか植物だとか岩石を模していたら嫌だからという軟弱安直な異世界です。

 

そして『スター・ウォーズ

誰が何と言おうと最も好きなSF映画です。

日本公開当時スピルバーグの『未知との遭遇』は本格SFだが『スターウォーズ』はくだらないドンパチもの、という評価でしたが私は圧倒的に『スターウォーズ』が好きでした。この気持ちは今も変わりません。

というか『未知との遭遇』は好きじゃなかったんですね。なぜかスピルバーグの良さが私はあまり理解できなかったのです。

今ではスピルバーグ映画の良さも少しわかるようになりましたしその二つを比較するのは馬鹿々々しいと思います。

 

スターウォーズ』ですべてが変わった、それは真実です。

『SHIROBAKO劇場版』水島努

f:id:gaerial:20211224055927j:plain

昨日途中まで観て「おもしろいよ」とツイートしてしまったのですが最後まで鑑賞して「うーむ」と唸っている状態です。

他の方のレビューでも賛否両論というよりほとんどの方が「おもしろくなくはないけど」「良いところもあれば悪いところもある」といったひとりの中で賛否を持っている人が多いように見受けられました。

私もまったく同じです。

「可もなく不可もなく」ではなく「良いんだけどなんだろう?」なのですね。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

結論から言うと『SHIROBAKO』で言いたいものはTVシリーズワンシーズンですべて出し切ったのではないでしょうか。

アニメ業界の内輪話なのでやろうと思えばいつまででもあの手この手でやれるのでしょうが少なくとも水島監督は全部言ってしまったのかもしれません。

なのでシーズン2や劇場版を作ろうと思った段階で別の監督に別の『SHIROBAKO』を描いてもらうべきだったのかもしれません。

つまりずっと各監督ごとの『SHIROBAKO』になるというわけです。

宮森あおい、という名前は残しつつ様々な宮森あおい、が描かれる、という手もあります。

 

多くの方が指摘されているように劇場版『SHIROBAKO』は結局TV版の二番煎じになってしまっているのですよね。

製作上での失敗からの監督闇落ち、あおいちゃん頑張るからのみんなで一致団結しての復活、勝利。

失敗は深刻で充分見ごたえあるし、あおいちゃんの頑張りも応援したくなるものですが作りたい作品がこちらでも同じく可愛いキャラの娯楽作品でもあるしワンパターン化してしまうのは当然なのだと思います。

TV版でも手掛ける作品は同じタイプのものでした。

例えば最初に企画が『空中強襲揚陸艦 SIVA(シヴァ)』とうタイトルだけしかないのですからそこから超絶ドシリアスで重厚劇画なSFアニメにする、という手もあったはずです。

しかし開けてみれば依然と同じような少年少女キャラと動物がメインの軽いアクションものになってしまう。

主人公が監督や作画スタッフではなく企画なのだから意識さえあれば違った方向性を求める、ということもできたはずですがそもそも監督が自分の好きな方面にしか興味を持てないのでは仕方ないのでしょう。

TV放送の第二シーズンを作っていたとしても同じ話の繰り返しになってしまったはずです。

 

そしてもうひとつ。

TV版でも気になっていたのは数多くの女性たち男性たちが登場するのに恋愛話がまったく出てこない。

確かに朝ドラなどの実写ドラマは肝心の仕事内容はそっちのけで恋愛沙汰ばかりの話になるのが興醒めではあるのですがここまで恋愛無視というのもちょいと心配にもなります。

アニメ業界の女性たち「忙しくて恋愛どころじゃなかったわ」というものなのかもしれませんがここまで削られてしまうと監督の女性に対する考えが「恋愛などするな」「恋愛は無価値」と考えているのだろうか、とあまり恋愛ものを観ない私でさえ思ってしまいます。

劇中作られるアニメ作品も女子ばかりが出てきてしかも恋愛沙汰がないようですし。

本作の劇中作品の少年の声が女性だったのはさすがに懸念しました。

どうやら水島監督という方は自分が作った女性キャラが男性を求めるのは許せない人格のようです。しかしそれがないとに人間そして女性を描くことはできないと思います。

 

SHIROBAKO』劇場版、前半の挫折苦悩パートはなかなか見せてくれますが後半肝心の製作パートになっていくとそうしたことが相まって内容がすかすかになっていき皆さんが物足りなく感じてしまう結果になってしまったのです。

 

TV版であればそこそこ隠し通せた人間性の欠如が拡張された劇場版では露見してしまった、ということではないでしょうか。

 

やはり人間は好きになった人、恋愛、憧れなどから成長していくものです。

そこを無視して仕事だけで感動させようとしても表面だけのものになってしまう、のです。

 

 

 

『ナイトクローラー』ダン・ギルロイ

f:id:gaerial:20211222052351j:plain

2014年公開。

もうひとつの『ジョーカー』のように思えました。知性が欠けているジョーカーとは違い感性が欠けているとうべきでしょうか。

 

しかも『ジョーカー』のアーサーより本作のルイスのほうがはるかに胸糞悪い最低野郎だとしか思えません。

まったく最初から最後までずっとむかつくばかりの映画なのです。なのに好奇心に負けて見てしまう、ということは観ているあんたがそもそもの元凶じゃないの?というわけです。

 

 

ではネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

ルイスという男がどういう経緯でここに存在しているのか、はまったく説明がありません。いや台詞で少しだけ推察はできます。

彼は高卒で大した学歴がなくそのせいもあって職探しではけんもほろろに扱われてしまいます。

とはいえルイスはアーサーとは違い狡猾に頭が良いのです。

知性に問題があって上手く生きられないアーサーには共感できますが感性が抜け落ちているルイスには微塵も共感できません。

よくもここまでの胸糞野郎を描けたものだと感心します。

しかしあのラストには笑ってしまいました。

スクープ映像のために何の感情もなく「仲間」を死に至らしめるルイスには本作中にはなんの因果応報もなくかえって快活明朗に仕事を拡張しバリバリ働き続けるのです。

むしろこれでルイスはマジで立派な社長さんになってしまうのかもしれません。

アメリカでは、というか日本も含めこのくらいの犠牲は当然なのが現在社会なのだということでしょうか。

 

ちょうど今マンガ『チェンソーマン』を読んでいたところですが命の軽さというものが題材なのですね。

ルイスは胸糞野郎ですが彼はそうでなければ死んでいた、生きるために胸糞野郎になって何が悪い?ということなんです。

彼は別に「良い人」だと思われようとしているわけではないのですから。

今まで観た映画でも最低最悪の胸糞野郎なのにもかかわらず彼は一種のヒーローなのです。

絶対に「ステキ」とは言われないヒーロー(彼に魅力を感じる人もいるかもですが)

絶対に愛されないヒーローなのです。

 

 

『モダンボーイ』チョン・ジウ

f:id:gaerial:20211220052649j:plain

この画像とてもステキだな。向かって右がパク・ヘイル。総督府に勤めるモダン・ボーイのイ・ヘミョン。左はキム・ナムギル演じる日高晋介。検事です。

 

日本植民地時代、京城(現・ソウル)が舞台。となればかつては大日本帝国軍の残虐非道とそれに対する恨と抵抗運動を過激に描き出す、となるはずですが最近の韓国映画はそれさえも一つの世界だと表現している気がします。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

むろん旧日本軍の残虐非道はあるわけですがその酷さが物語の深みと面白みを引き出す装置として仕掛けているように感じます。

そもそも韓国映画では自国の不正や非道も徹底的に叩き出そうとする気概が芯にあるわけで本作ではそれが旧日本軍だというわけです。

とはいえ本作はむしろラブコメディに区分けされるのではないでしょうか。

旧日本軍の統治下にあった京城府での男女の切ない恋愛をコミカルな味わいで描いた作品なのです。

なのでここに描かれるのはそんな状況下だからこそ存在しうる恋愛にどこか憧れめいた気持ちを感じてしまいます。認めてはいけない美しさなのです。

イ・ヘミョンと日高晋介の友情にも同じく危険なバランスの上にある憧れめいたものを感じます。

なんとなれば晋介役のキム・ナムギルがかっこいいことこの上ない。

彼のかっこよさに映画製作者の感覚が現れています。

 

そしてパク・ヘイルのイ・ヘミョンを滑稽に描いたことにこれまでの意識とは違うけれども深い悲しみも感じさせられます。

 

最期の式典の場面はなぜか『進撃の巨人』を思い出しました。

 

 

 

『蟲たちの家』黒沢清

f:id:gaerial:20211218054716j:plain

画像に出ている通り楳図かずお原作を黒沢清監督が2005年映画化したものです。

俳優たちの下手さも含めかなりチープな感じがしますがそれがかえって面白く感じます。

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

そして昨日観た『降霊』や他の作品との共通点はここにも表現されていて楽しかったです。

表面は善良だけど身勝手な夫、それによって狂わされていく妻、という構図は本作にも『降霊』にも最新作の『スパイの妻』にも描かれています。

『スパイの妻』は他と違って妻からの視点になっていますが善良だけど身勝手な夫vsそれによって狂わされていく妻、という構図は同じなのです。

『CURE』はもっとも明確ですし『クリーピー』もそうですしもしかしたらほぼすべてそうなのかもしれません。今後確かめていきたいものです。

となればこの構図からは何が考えられるでしょうか。

一見「男はわがままで酷いよね」「女性が可哀そうだ」となりそうですが常に男が優位にいるという黒沢監督の男女感がわかるようにも感じられます。

女性はか弱くて守ってあげなければいけないが実際は女性のほうが強かである、というのが黒沢監督の女性描写に思えますがこの感覚は最もクラシックでスタンダードです。

そうした正統派であるからこそホラーやサスペンスが描きやすいのでしょう。

 

本作に描かれる嫉妬深く権威的だが実は弱い夫、その男に惹かれる若い女、夫に翻弄されながらもしぶとく生きる妻、その女に惹かれる若い男、という古典的な物語が展開されていきます。

しかしこれ以外の人物造形には黒澤監督は興味が持てないのではないかと思えます。わがままな男と従順な女という関係性にしか萌えないのでしょう。

f:id:gaerial:20211218065835j:plain

 

『降霊 KOUREI』黒沢清

f:id:gaerial:20211217052243j:plain

こんな恐ろしい映画があるのだろうか。

さんざん言われてきた言葉ですが怖いのは幽霊ではなく生きている人間のほうだ、ということでした。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

 

はっきり言って幽霊の場面は何も怖くはありません。

実際に霊が見える人に証言を得て再現した、というのが売り文句でもあったようですがそれはもうどうでもいいのです。実際に見た時だけに感じるものなのです。

窓ガラス越しに動かないただの人形を置いただけの映像が史上最も怖いと話題になっていました。確かに上手いと思いましたがそれ以上に人間たちが怖すぎて幽霊も真っ青なのです。

 

主人公は子どもはいないけど仲の良い夫婦です。一見とても幸福そうに思えます。

夫は音源を作る会社でまじめに働く善人です。

妻は霊能力を持ちそれを活用して人の悩み事を聞いてあげるような小さな仕事をしていて大学の研究所の学生からその力に一目置かれています。しかしその期待に上手く応えきれずにいました。

 

黒沢清映画には良い感じの夫、というのが良く出てきます。

ハンサムで男らしくて頼りがいがある、と感じさせるのですがその実それは張りぼてにすぎないという描写になるのです。

本作でも役所広司演じる克彦は優しい夫のようでいて実際は妻・純子の本質を見ようとはせず彼女がなにを求めているのかを知ろうとはしません。

いつも返事は「いいよ」「大丈夫だよ」とおおらかのようでいて無関心なのです。

『CURE』もまったく同じ関係でありましたね。

 

例えば夫は家でも効果音の仕事を妻の前でやっていますが妻の仕事にはまったくかかわろうとはしません。

そしてレストランで妻の仕事が認められたら自分は主夫になろうかと軽口をたたきます。

それがこの夫婦には当たり前になっているのがおかしいのですがそれ自体に気づいていないのです。

 

物語は誘拐された少女が克彦の機材道具入れに隠れたことから大きく動き出します。

(しかし子どもとはいえかなり重かったのを気付かないということがあるのだろうか?少なくとも20キロ以上はあるはず。車の中にあった箱に入った、としても出すときに気づくだろうし?)

そして誘拐された女児が箱に入っているのに気づいたのだから純子の能力はまったく嘘ではなかったのがわかります。

が、ここで夫婦は最も恐ろしい選択をするのです。

純子は自分のか細い霊能力を使って夢を実現したい、そのためには女児をしばらく匿って自分の能力で見つけ出したい、と思い夫に「一日だけ待って。私のやりたいようにやらせて」と願うのです。

理由をはっきりとは告げられないままなのに夫・克彦は純子の行動を阻止できません。そして「あなたは肝心な時にいつも私の邪魔をする」と言われとうとう純子の計画に便乗してしまうのです。

これはもしかしたらかつてもこのようなことがあっったのかもしれないと考えさせられます。

そのことで純子は霊能力を活用できなかった、これが最後のチャンス、となったのかもしれません。

 

純子の「一日だけ」という台詞が何度となく使われます。恐ろしいセリフです。

後で克彦は「一日だけでなくいつまでも続くんだよ」と答えます。

 

映画はおかしくなった妻に従う優しい夫、のように見えますが実際は優しいわけではなく妻の本質を見たくない怠惰な夫に過ぎないのです。

そこまでしても妻の核心を見たくないのです。

 

(『スパイの妻』ではこの関係が逆になっていますが妻のほうは夫の核心を見る、という仕掛けになっていましたね)

 

幽霊の映画ではなく生きている少女がゆっくり死んでいく様子を見させられることになります。

妻が「女の子は?」と聞くたびに夫が「寝ている」と答えますがあんなに都合よく寝てしまうのは奇妙です。

助かったはずの女児を見殺しにしてしまう、そして観客はそれをなすすべもなく観ている、という恐ろしい映画なのです。

そしてその女の子の幽霊が怖い、とか霊になって仕返しされるとかいう意識が恐ろしすぎるのです。

最初に警察に電話しようとして躊躇してしまう、こと自体が怖い。

 

そして本作もまた共犯者になった時に最も強い愛情となる映画でもありました。

 

 

 

 

『スパイの妻』黒沢清

f:id:gaerial:20211215054057j:plain

f:id:gaerial:20211215054107j:plain

TV版は鑑賞後の劇場版です。

とはいえ違いはまったくわからず。続けて観ればわかるのかもです。

とりあえず内容は同じで色調などが違うということなのですが。

 

再鑑賞で感想はどうかなと思っていたのですがとても面白く感じました。

娯楽映画、というのはこうであってほしいとも思えます。

「スパイ」人類史上常にあったはずで今もあらゆる場所でおこなわれているであろうこの所業は同時に最も忌むべきものと認識されます。

その対象が国家となれば売国奴と嘲られるのは当然なのです。

そこに夫婦の愛情が絡んでいきます。

コスモポリタン」と自称する夫には裕福に暮らしてきた嫋やかな妻がいます。しかし一見男に頼って生きるしかないかの如きこの女性は誰よりも強かであるのです。

 

やや芝居がかって見える演技が本作では非常に鮮やかとなります。

不確かな夫婦の愛はスパイという共謀者になった時に最も強いつながりになってしまったのです。

 

昔の女性の一途さを本作は魅力的に描写しています。

怖い、と言いながら愛する夫に頼まれれば必死で歩んでしまう。

それはもう愛というよりも意地のようでもあります。

昔の男である夫は自分の使命と思えば妻をも利用してしまう。

こうした力関係と意識は現在にはあまり期待できないものに思えます。

だからこそこの題材を形にするには戦時という舞台が必要になったのでしょう。

 

共犯者というものは最も強い愛情だということをこの映画は語ります。

愛する女性を危険に巻き込みたくない、という話はよくありますが渦中に妻を巻き込める魅力に女は溺れてしまうのです。

 

本作はなんといっても蒼井優だと思いました。