こんな恐ろしい映画があるのだろうか。
さんざん言われてきた言葉ですが怖いのは幽霊ではなく生きている人間のほうだ、ということでした。
ネタバレしますのでご注意を。
はっきり言って幽霊の場面は何も怖くはありません。
実際に霊が見える人に証言を得て再現した、というのが売り文句でもあったようですがそれはもうどうでもいいのです。実際に見た時だけに感じるものなのです。
窓ガラス越しに動かないただの人形を置いただけの映像が史上最も怖いと話題になっていました。確かに上手いと思いましたがそれ以上に人間たちが怖すぎて幽霊も真っ青なのです。
主人公は子どもはいないけど仲の良い夫婦です。一見とても幸福そうに思えます。
夫は音源を作る会社でまじめに働く善人です。
妻は霊能力を持ちそれを活用して人の悩み事を聞いてあげるような小さな仕事をしていて大学の研究所の学生からその力に一目置かれています。しかしその期待に上手く応えきれずにいました。
黒沢清映画には良い感じの夫、というのが良く出てきます。
ハンサムで男らしくて頼りがいがある、と感じさせるのですがその実それは張りぼてにすぎないという描写になるのです。
本作でも役所広司演じる克彦は優しい夫のようでいて実際は妻・純子の本質を見ようとはせず彼女がなにを求めているのかを知ろうとはしません。
いつも返事は「いいよ」「大丈夫だよ」とおおらかのようでいて無関心なのです。
『CURE』もまったく同じ関係でありましたね。
例えば夫は家でも効果音の仕事を妻の前でやっていますが妻の仕事にはまったくかかわろうとはしません。
そしてレストランで妻の仕事が認められたら自分は主夫になろうかと軽口をたたきます。
それがこの夫婦には当たり前になっているのがおかしいのですがそれ自体に気づいていないのです。
物語は誘拐された少女が克彦の機材道具入れに隠れたことから大きく動き出します。
(しかし子どもとはいえかなり重かったのを気付かないということがあるのだろうか?少なくとも20キロ以上はあるはず。車の中にあった箱に入った、としても出すときに気づくだろうし?)
そして誘拐された女児が箱に入っているのに気づいたのだから純子の能力はまったく嘘ではなかったのがわかります。
が、ここで夫婦は最も恐ろしい選択をするのです。
純子は自分のか細い霊能力を使って夢を実現したい、そのためには女児をしばらく匿って自分の能力で見つけ出したい、と思い夫に「一日だけ待って。私のやりたいようにやらせて」と願うのです。
理由をはっきりとは告げられないままなのに夫・克彦は純子の行動を阻止できません。そして「あなたは肝心な時にいつも私の邪魔をする」と言われとうとう純子の計画に便乗してしまうのです。
これはもしかしたらかつてもこのようなことがあっったのかもしれないと考えさせられます。
そのことで純子は霊能力を活用できなかった、これが最後のチャンス、となったのかもしれません。
純子の「一日だけ」という台詞が何度となく使われます。恐ろしいセリフです。
後で克彦は「一日だけでなくいつまでも続くんだよ」と答えます。
映画はおかしくなった妻に従う優しい夫、のように見えますが実際は優しいわけではなく妻の本質を見たくない怠惰な夫に過ぎないのです。
そこまでしても妻の核心を見たくないのです。
(『スパイの妻』ではこの関係が逆になっていますが妻のほうは夫の核心を見る、という仕掛けになっていましたね)
幽霊の映画ではなく生きている少女がゆっくり死んでいく様子を見させられることになります。
妻が「女の子は?」と聞くたびに夫が「寝ている」と答えますがあんなに都合よく寝てしまうのは奇妙です。
助かったはずの女児を見殺しにしてしまう、そして観客はそれをなすすべもなく観ている、という恐ろしい映画なのです。
そしてその女の子の幽霊が怖い、とか霊になって仕返しされるとかいう意識が恐ろしすぎるのです。
最初に警察に電話しようとして躊躇してしまう、こと自体が怖い。
そして本作もまた共犯者になった時に最も強い愛情となる映画でもありました。