ガエル記

散策

「彼女は頭が悪いから」姫野カオルコ

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上野千鶴子氏のスピーチで取り上げられただけではなく読まねばな、と思っていた本著を図書館で借りられたのでやっと読むことができました。

内容についてはもちろんタイトルを聞いた時に知らされてたわけですが、その事件に憤りを感じた者がこう描いて欲しいと願うそのとおりに書かれていたと思いました。

「憤り」という感情がそのまま文章の中に潜められることなく叩きつけられているとさえ感じました。

 

このやり場のないムカムカをどうすればいいのだろうと思いながら検索をすると2018年末に東大で作者を迎えてのブックトークというイベントがあったと書かれており、その中で作者姫野氏を前に「この本の表記は誤りが多い。例えば寮が広いと書かれている(実際は狭いということなのでしょう)東大女子学生が一割と書かれているが実際は二割。東大男子はモテると書かれているが実際はモテないことが多い。挫折を味わったことがない、と書かれているが多くの東大生は挫折の経験がある」などの反論があったとのことで運悪く体調を崩されていた姫野氏は上手く答えられなかったようなのですね。

その攻撃をしたのは東大の教授なのですが、小説について語る時、真っ先にそのテーマやテーマに拘る表現についてではなく枝葉の部分についての苦情を感情的に述べるということに茫然としました。

この攻撃をしたのが「東大の教授」であるというのがまさしく本著のテーマそのものであり、むしろ演出だったわけではないのだろうかとすら思えてしまうではありませんか。いやそんなことはあり得ませんね、皆の前でなのですから。

女学生の数が1割なのか、2割なのか、とか寮は狭いんだ、とか挫折した東大生だっている、などという反論は小説を読んだことがない人の発言なのかと思ってしまいますが、日本の最高頭脳の大学の教授が子供のような反論をなさっては困ります。テーマそのものについての議論をしようという気持ちがなかったのでしょうか。しかもその教授はジェンダー論を教えているということなのですが一体どんなジェンダー論なのか。

いや私も本筋から離れてしまいました。

とはいえ、この教授に対するまっとうな反論は別の教授からされていて少しほっとしましたが、東大の男性教授からの本著への攻撃論の稚拙さがいつも起きる女性への性犯罪の際に巻き起こる男性からの的外れな感想とあまりに似通っていてぐったりします。そしえ、そのことを本著は「なぜ?」と問いかけているわけですが、小説の通りのヘイト発言をする、というのはどういうことなのか。ヘイト発言をしている者が全くその意識がない、ということをその男性東大教授は自ら証明してくださった、ということなのですね。

www.huffingtonpost.jp

 

 さて本著を読んでいて思い出した著作があります。

映画にもなった、というより映画で有名な「ミスター・グッドバーを探して」です。

実を言うと私は映画は観たはずだとは思うのだけど、もしかしたら観ていないのかも?と思うほど覚えていません。しかも今観ようと思ってもVHSしか発売されておらずネット配信も見つからなかった次第です。

そして小説のほうも絶版のようで古本でしか手に入りません。

私はかつて早川書房の文庫本を購入して何度となく読み返していたものですが、ある時紛失してしまったようでどうしようもなく単行本を古本で買いました。昭和51年となってますから1976年初版発行のものです。

映画は記憶にないので(か、観てない)小説の「ミスター・グッドバーを探して」は当時実際に起きた事件をもとに小説として描かれたものです。

つまりそこが「彼女は・・」と重なった部分のひとつですがノンフィクションではなくあくまで小説として描かれている、ということなのですね。

その実際に起きた事件というのは1973年ニューヨークで聾唖学校の女性教師が殺害された、というものです。

その女性は「聾唖学校の教師」という誰もが立派な仕事、と思う職に従事しながら夜はを彷徨い行きずりの男と一夜を共にする、という生活をしていました。そしてある時出会った刑務所から脱走した男とマリファナを吸いながらセックスをしようとしたのですが上手くいかず、そのことを馬鹿にされたと感じた男から殺害されてしまったのでした。

ジュディス・ロスナーという作家がこれを小説として執筆し話題となって映画化もされた、ということでした。

真面目で熱心な仕事ぶりで明るく優しかったという女性教師が夜な夜な男を漁っていた、ということが衝撃として当時のアメリカで受け止められたのです。

訳者・小泉喜美子氏はあとがきで「信じられないほど相矛盾する一人の女性の両面を、なんとかうなづけるものとして分析し、解剖し、さかのぼり、掘り下げてみることだった」とし、その意図は必ずしも十全の成功をみたとは言い切れないが、下手くそに生きてしまった一人の女性の姿がここには仄かに浮かび上がっているような気がします」、と書かれています。

「彼女は・・」においてその試みは「彼女」だけでなく「男」の方にも向けられているように思えました。

 

「彼女は・・」が「ミスター・・」と違うのはそれが殺害事件でもなくレイプ、という事件でもないことです。もしかしたら日常頻繁に起きていることが少し異常化してしまったようなこと、なのかもしれないのです。

 「彼女は・・」の美咲は読んでいて正直イライラさせられます。それは彼女が「私がこうなりたくはない普通の若い女性」だからであるのでしょう。もしかしたら自分もそうだったかもしれない女性だからなのです。

彼女を傷つけるつばさも普通の若い男に過ぎないのかもしれません。そこにあるのは「信じがたいほどの凶悪」ではなく、よくある優越感から踏み外してしまった小さな過ち、のようなものにすぎないのかもしれません。

だからこそ、誰もが起こしてしまうかもしれない事件だからこそ怖ろしいのです。ちょっとしたいじめが行き過ぎた、ちょっとした書き込みが暴走した、そのことが一人の人間の心を壊してしまう、その怖ろしさを書き綴ったものなのです。