ガエル記

散策

『嵐が丘』エミリ・ブロンテー恋愛と復讐ー

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嵐が丘』を久しぶりに読み返しました。(久しぶりが短いのですが)

やはり心惹かれます。

そして今回再び他の翻訳と比較してやはり中村佐喜子文体が一番しっくりくると確認しました。

せっかくなのでここでエミリ・ブロンテ(中村佐喜子訳)が書いたこの物語のどこに惹かれるのかをもう一度書いてみようと思います。

 

ネタバレしますので、ご注意を。

 

 

 

 

嵐が丘』はとりあえず恋愛小説、と区分けされているのではないでしょうか。

そしてまたヒースクリフの復讐の物語、であるとも言えます。もしかしたら彼以外の人物の復讐も混じりこんでいます。

が、この区分けは半分正解で半分間違っているようです。

確かに『嵐が丘」は憎しみを表す場面が多く仕返しをしていく復讐の物語であることは確かですが、奇妙なことに恋愛の描写はほとんどないのですね。まるでとってつけたような告白の場面がいくつかあるだけです。

こんなぎこちない恋愛物語がどうして書かれてしまったのでしょうか。

 

まず「恋愛」とは何でしょうか。

wikiを見たのですが

広辞苑では「男女が互いに相手をこいしたうこと」

と簡単に説明されています。

新明解国語辞典では「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」

とこちらはかなり複雑な表現で、しかもこの説明はまるでキャサリンヒースクリフのことを描写しているかのようにさえ思えるのですからふたりはまさしく恋愛関係にある、と言って差し支えないように思えます。

しかしさらに次は、この小説のキャサリンヒースクリフとはいったいなんなのか、どうしてエミリ・ブロンテが彼らを生み出したのか、ということを考えねばなりません。少しずつ話を進めましょう。

 

小説『嵐が丘』で大きな題材として描かれているのは確かにキャサリンヒースクリフの「恋愛」とヒースクリフの「復讐」ですが、ふたりがどのように恋愛していったかは判りません。

というのはこの小説は当時スラシュクロス屋敷の家政婦をしていたエレン(ネリ)・ディーンが訪問者であるロックウッド氏に語り聞かせるという形式で書かれているのでネリが見ていない、もしくは聞いていないものは判らない、ということになるわけです。

なのでネリが見ていない場所でキャサリンヒースクリフがどのようにして仲良くなりどんなふうに愛し合ったかは想像するしかありません。

ほとんどの恋愛小説は「恋愛の過程」が中心に描かれていくものです。出会った時ふたりがどんな気持ちであったか、どのようにして愛情を深めていったか、そこが醍醐味であるはずなのに『嵐が丘』ではそうした男女の心の深まり方、などはそっくり省略されています。

 

ヒロインであるキャサリン・アーンショウ(のちにリントン)の恋愛感情はずっと彼女の世話をしてきたネリ・ディーンに語る形でしか知らされません。

その一つが昨日リンクした動画で触れられていたあのセリフですね。

もちろんここでは中村佐喜子訳で書かせていただきます。

「ネリ、わたしはすなわちヒースクリフなのよ。」「わたし自身の存在として彼がいるの」

この言葉はいったいどういう意味なのでしょうか。女性が男性を自分そのものだということは他にかつてあったでしょうか。

また同じようにヒースクリフ「キャサリンの心はおれの心と同じに深いんだからね」とネリに語り聞かせます。そして彼女がほんの少しでもエドガァ・リントンを愛してしまったと考えた自分を馬鹿げていたというのです。

 

恋人のことを互いにこんな風に表現した小説は他にあるでしょうか。

男女の関係が平等になってきた現在なら或いは在り得るかもしれませんが、1800年代半ば男女の性差が激しい男尊女卑の時代にです。男女はまったく違うもの、とされ女性は男性に従うのが美徳とされていた時にキャサリンヒースクリフの恋愛は恋愛とは言い難いものだったはずです。

 

そして恋愛小説は自分とはまったく違う異性の性的魅力に感じるもの、としてときめく描写をするのが今でも通常でしょう。

ましてかつての小説はほぼ男性によってのみ書かれてきましたので、男性が女性の性に惹きつけられる描写が数えきれないほどあるわけです。

その中で男性が「恋愛する」女性に対して「彼女は自分だ」と表現することがあったでしょうか。

つまり多くの恋愛描写では「男」が好きになるのは自分にない女の美しさ、可愛らしさ、性的な色香、自分への思いやり、などを賛美するものであったはずです。

「男の俺とは違う特別なもの」男性の自分とは違う「女性性」そして女性が惹かれるのは自分にない男性性、という異性の差異をどのように描写するかが小説家の感性と手腕だったのです。

 

翻って『嵐が丘』ではキャサリンヒースクリフを「自分自身」「自分そのもの」だと言い、ヒースクリフも「同じように深い心を持っている」と恋人というより「同志」のような表現をするのです。

昨日の動画のお二人は「わたしはヒースクリフなの」ではなく「私の中にヒースクリフがいる」という台詞を良しとされていましたが、私はこの言葉はやはりキャサリンが「わたしがヒースクリフである」と言ったという意味だと思っています。

多くの恋愛で男と女は違うもので違うから惹かれあう、と描かれるのが本作では「ふたりは同じものなのだ」とふたりとも思っているのです。

 

異性だから求めあう、異性として好きになる、異性の恋愛小説で性によって導かれるものがここでは魂の結びつきとして描かれていきます。

 

私は自分が読んできた、観てきた作品の中でこんな形で恋愛を語っているものは他にないように思えます。

しいて言えば『機動戦士ガンダム』のアムロララァでしょうか。

しかし彼らは肉体としての恋愛ではないのですが。

ララァはシャアがアムロは・・・セィラでしょうか。

 

さて、ではふたりはどのようにして創造されたのでしょうか。

嵐が丘』のキャサリンはたぶん作者であるエミリ・ブロンテの分身なんだろうな、と考えてしまうのは不思議ではないでしょう。

彼女について書かれたものを読むとイギリスの田舎で周囲から断絶しているかのような境遇の牧師館で育ち教師となっているのを知ることができます。このイメージは小説『嵐が丘』の極端に狭い世界観と一致します。

ヒースの荒れ野だけがその舞台で登場する人物も極端に限られた閉じた世界です。

そうした世界の中だけで生きた女性が本からの知識の中だけで創造したのが『嵐が丘』です。

キャサリンはエミリ・ブロンテその人でしかないでしょう。

次に「ヒースクリフ」という男性はどのようにして生まれたのでしょうか。

イギリスの片田舎で突如現れる黒い肌・黒い髪のジプシィのような風貌の持ち主が彼です。裕福な家庭に生まれ育った紳士であるエドガァ・リントンより体も大きく力も強く少しも卑屈さを感じさせません。

成長してからの彼はますます凶暴性が強調されていきます。恋愛小説の男性に求められる魅力的な美男子ではなく、むしろ怖ろしい野獣を思わせます。

夢みる文学少女はこのような荒くれ男を恋人に夢想したのでしょうか。

 

ヒースクリフの造形はエミリ・ブロンテが「こうなりたい」と願うものだったのではないでしょうか。

どこにも行けずその世界だけで生きるしかできないか弱い女性であるアミリ・ブロンテ(知性と教養があり良い家庭で生まれ育ってはいるが)彼女は流れ者であるジプシィのような男になりたかったのでは、と私は思います。

当時の女性には乏しい権利しかありませんでした。

男性名でしか小説を発表することが許されない、というような世界で彼女が男性からも「怖ろしい男だ」と形容される黒い髪の大きな体の強い男になりたい、と願うのは当然だったでしょう。

それは同じように田舎に生活しどこにも行けない境遇である女性、である私としてはあたりまえに考えてしまう想像です。

だからこそキャサリンは「ヒースクリフは私なのよ」と言います。

その言葉は何らかの意味があるのではなくその言葉のままなのです。

キャサリンはエミリ・ブロンテそのものであり、ヒースクリフはエミリ・ブロンテがこうなりたいと願うそのものなのですから。

エミリ・ブロンテはキャサリンでありヒースクリフであるのです。

 

つまりキャサリンヒースクリフは同じなのは当然なのです。

 

ではこれは恋愛小説、と言っていいのでしょうか。

 

その前にこの小説に描かれる復讐とはいったいなんなのでしょう。

 

もしヒースクリフとキャサリンが結ばれるのであれば復讐もなかったのです。

しかしふたりは結ばれませんでした。

これも当然です。

エミリ・ブロンテはキャサリンにはなれてもヒースクリフにはなれなかったからです。

 

彼女はキャサリンになり、ヒースクリフにもなりたかった。

彼女は女性であり、小説家になりたかった。

でも時代は彼女がヒースクリフ(小説家)になることは許しませんでした。強い男のように誰からも畏れられる存在にはなれなかったのです。

だからこそ、キャサリンエドガァと結婚するしかなく、ヒースクリフはそのことに絶望しました。

実際のエミリ・ブロンテは未婚だったわけで女性ならそうするべきと言われる妻・主婦・母親になるという選択肢を切り捨てることが世間への復讐だったのかもしれません。

そしてキャサリンはいつまでも本当にヒースクリフそのものだったのです。

これはエミリ・ブロンテはヒースクリフそのものだった、ということです。

しかし現実はそれを許しません。

キャサリンは死に、エミリ・ブロンテも同じように若くして亡くなりました。

エミリが創造したヒースクリフは彼女(エミリでありキャサリンでもある)と永遠にヒースの荒野を彷徨うのでしょう。

 

さて結論です。

荒れ野の中に佇む孤高の人エミリ・ブロンテが書いた『嵐が丘』の主人公ヒースクリフはエミリにとって「恋人ではなくこうなりたいと願う人物」であり、キャサリンはエミリそのものなのであります。

ふたりの関係は恋愛というよりふたりでひとつというのはそのままエミリの分身だからなのです。

エミリそのままの分身であるキャサリンとこうなりたいという分身ヒースクリフが結ばれる、ということはエミリが女性でありながら夢を叶えられる=仕事ができる=小説が書ける、という暗喩でもあったのですがその夢がかなえられるという道は閉ざされていました。

女だてらに小説を書く、というヒースクリフとしてのエミリ・ブロンテの復讐は果たされたのではないでしょうか。

彼女の死後200年の時を越えて今もなお彼女の小説は世界で屈指の名作と呼ばれ続けてのですから。

 

もう少し砕けて書きますが、ヒースクリフというキャラクター造形に私はすごく共鳴します。

荒々しい野獣の容貌をしながらキャサリンだけをひたすら愛し続ける。あり得ないほど強烈なぞくぞくするイメージです。

キャサリン以外の人間は彼女に似た娘にさえもわずかな愛情ですら与えようとはしない。嵐が丘とスラシュクロスの住民は彼女以外のすべて皆殺しにしようと思っています。

ただ一度もっとも憎むヒンドリの息子ヘアトンがぎくりとするほどキャサリンの面影を感じさせた時にのみヒースクリフは心が揺らぎました。

キャサリンの娘ではなく彼女の兄の息子(つまり甥っこ)が彼女にそっくりだということもヒースクリフの愛情が異性ということにのみ反応しているのではないのだと思わせます。

ヒースクリフがキャサリンの娘キャサリンには微塵も興味を持たないのに彼女の甥っこになるヘアトンに彼女の面影を見るのがとてつもなく性的に思えて仕方ありませんでした。

 

それにしても『嵐が丘』の最期はなんという美しさでしょうか。

魂となったキャサリンヒースクリフは「嵐が丘」屋敷に棲み荒れ野を彷徨っているのです。キャサリンは天国よりもヒースの荒野にいたいと願っていたのですから。

残されたヘアトンと娘キャサリンが結婚しネリ・ディーンが家政婦として付き添う。

壮絶な復讐劇の締めくくりはすばらしい幸福がありました。