ガエル記

散策

『嵐が丘』の翻訳は誰に?

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とても興味深い動画に出会ってしまいました。『嵐が丘』全翻訳比較、という企画ものです。

ちなみに私のいち推しは中村佐喜子氏であります。

 

嵐が丘』は初めて読んだ時からずっと数えきれないほど読み返してきた小説です。自分で購入した手持ちのの文庫本には昭和52年代29刷発行となっていますから40年以上読み続けているということですね。

 

数年前さすがに文庫本がくたびれてきて(カバーはすでに消失しています。私が嫌いなせいもあるのですが)印字が薄くなっているうえにもともと小さいので読みづらいと思って新しく購入しようと思いました。

気に入っているので中村佐喜子氏の翻訳を選びたかったのですが旺文社文庫のそれはすでに絶版になっていて古本しかありません。

同じように読みづらいのでは意味がないのですが中村佐喜子翻訳本は他にはないようですし別の方で仕方ないと思い試しに読んだのですが、あまりにも翻訳が受け入れきれない文体だったので耐えきれず読み通せませんでした。確認しようと探したのですが見つかりません。我慢ならず捨ててしまったのかもしれません。

今となればとんでもないなと思うのですが、ヒースクリフが自分を「おれ」と言わず「ぼく」と言っていたので死にそうだったのです。(大人になったヒースクリフが「わたし」というのは良いのですが)

なのでヒースクリフが「ぼく」と言っている翻訳があればそれです。

 

その一度の体験ですっかりめげてしまった私はもう新しい翻訳本を探すのはやめました。

そして数日前からまた読みたくなって読んでいました。何度も繰り返し読んできた文章です。その一つ一つの表現が私にはしっくりくるのです。

 

というのでこの数日『嵐が丘』を読み続けていたのですがそんな折に偶然上にあげた動画がひょいと目の前に出てきたわけです。なんという不思議なめぐりあわせでしょうか。(ここんとこしょっちゅう小説の朗読を聞いているので不思議でもないのでしょうけども)

 

私がたった一回で(つまり二回目で)投げ出した『嵐が丘』の翻訳の比較を丹念にしているという企画とは。興味を惹かれずにはおられません。

主のムーさんはわかる限りのすべての『嵐が丘』翻訳本を探して購入されたということです。とても真似できません。しかしこれを観れば私の新しい本も選べるかもしれません。

 

キャサリンヒースクリフのことをどう思っているかを小間使いエレン・ディーンに語り聞かせるという一場面を古い翻訳からひとつひとつ原文と訳文を比較していく、という素晴らしいアイディアです。

古いものほど表現が今の感覚と違ってくるものです。私お気に入りの中村佐喜子訳は初版が昭和42年ですから50年以上経っているのですが、動画の評者である若いお二人の感想は如何に、と思って固唾をのんで(ややおおげさ)いましたら「とても丁寧な翻訳ですが勢いに欠けますね。でも丁寧です」というおおむね良好ですが魅力的ではない、という感想でした。なるほど。

 

私が気になりながらほったらかしにしてしまった他の翻訳との比較、という考えはとても興味を持ってしまい、早速私もキンドルで無料サンプルによる比較をしてみましたよ。

もちろん電子化されていないものも多いのでそこは残念ですがおふたりが勧めている最近の翻訳ほどサンプルが読めるのはありがたい。

ムーさん一押しの)鴻巣友季子翻訳もありました。

動画で取り上げられている部分ではなく冒頭箇所になりますが、比較はできます。

私が気になったのは物語の聞き手であるロックウッド氏とキャサリンの娘キャサリンとの会話で小キャサリンがー「妙なものをひいきにするのね」と、馬鹿にしたように云われてしまった。ーというところ。中村訳は「奇妙なお気に入りだわ!」と彼女はさもあざけるようにいった。―となっています。原文比較しなければ判らない、と言われればそれまでですし、人によって感覚は違うでしょうけど私はやはり中村訳の乱暴な話し方が納得できるのですね。

ヘアトンが「おいらの名前は」「名前には敬意を払ってくれよな!」という鴻巣訳よりも中村訳の「わっしは」「この名前に敬意を払ってもらいたいもんだ」のほうが荒っぽさが現れていると思うのです。

あとは全文を読まねば判らないでしょうけど、『嵐が丘』の魅力は田舎のガサツな言動に現れていると思っています。中村佐喜子訳はその荒々しさ粗雑さが生々しく表現されていますが、他の翻訳を確かめてもやはりどれもその武骨さが足りなく思ってしまうのです。

 

どうやら私の『嵐が丘』新本購入はまたもや果たされないようです。かといって中村佐喜子氏の翻訳を丸写しにするわけにもいかないでしょうし、これ以上に野蛮な文章に変えてしまうのも無理でしょう。

 

とても楽しい経験でしたが私の『嵐が丘』翻訳本はまだまだ中村佐喜子氏で行くしかないようです。