上の記述とは逆に犬童一心監督作品『ゼロの焦点』を観てからの展開でした。
と言っても野村芳太郎の映画はすでに鑑賞済みでその後松本清張原作も読んでいます。
で今回の犬童一心監督作品『ゼロの焦点』ですがまさしく現在日本映画の欠点をすべて出し尽くした映画、という感覚でした。
つまり脚本演出がちぐはぐで中途半端のまま放り出されたまま繋ぎ合わされている上、人物造形に魅力がないのです。
この作品は三人の女性が描かれていきます。
主人公である禎子を演じる広末涼子の話し方は「昔の女性のつつましさ」を表現したいためのものなのか、奇妙に甲高い小声なのが気持ち悪いのです。野村版での久我美子が落ち着いた大人の女で知性のある低い声だったので余計に比較してしまいます。
田沼久子の木村多江と有馬稲子、二人は特にないのですが木村多江氏の巧さが却って浮きだしてしまったようにも思えました。
どういう趣向なのか、中谷美紀の室田佐知子は特別に改変されています。原作・野村版では地元有力者の年齢の離れた美しい妻、という描かれ方だったのが犬童版では女政治家の強力な後見人といった活躍をしている女性になっていてその描写のために映画では彼女が一番目立つ女性として活躍することになります。
しかもかなり高齢だが優しい愛妻家という設定だった彼女の夫は犬童版では冷酷な事業家で従業員を苦しめる中年男となっているのですがこの改変に意味があるのでしょうか。
佐知子は優しい夫から愛されているからこそ自分の過去を知られたくなかっただろうし、それゆえに殺人まで犯したのだ、という元々の松本清張の描き方が最も納得いくものだったし野村版の加藤嘉氏はまさにその夫役にぴったりでありました。
だからこそ変えたかったのかもしれませんがこの改変が犬童版をすっかり軽薄な作品に貶めてしまったと思います。
まあダメなのはそこだけじゃなく全体にダメなのでもうどうしようもないんですが。
犬童版『ゼロの焦点』のキャッチコピーは「愛する人のすべてを知っていますか?」だったようですがヒロインが夫と過ごしたのはお見合い後結婚して新婚旅行にいったというほんの一週間ほどなので「愛する人」というには短すぎではないでしょうか。このコピーは熟年夫婦になってから夫が失踪した場合に使うべきでしょう。「愛は時間じゃない」かもしれませんが少なくとも映画でふたりがそれほど深く愛し合ったという説明は成されていません。
すばらしい小説を原作としてお手本になる映画作品もあるうえでこうしたリメイクを作ってしまう現在(少し前ですが)の日本映画界です。
松本清張生誕100周年記念で電通が絡んで製作されたようで推して知るべしです。しかも本作は日本アカデミー賞を作品賞ほか11部門取っているとか、マジ(=本気)か!としか言えないではないですか。
野村版がそれ以後のサスペンスドラマのお手本になったのはよくわかります。日本海側の情景、崖の上のスリル、大人の物語の面白さ、何の力もないひとりの女性(主婦というべき)が丹念に謎を追っていくことでこんなにも面白いドラマができるのか。しかもその中に戦後という悲しみや社会の苦しみが描かれていく。
犬童一心氏はそうした松本清張が生み出した面白さ、野村版の見せ方のすべて切り捨てて妙なものを作りました。
今の日本映画はこうした作品を生むようになっているとしか思えません。