ガエル記

散策

『桐島、部活やめるってよ』 映画と小説(吉田大八と朝井リョウ) その3

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もう少し小言を書いてみます。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

小説と映画でもうひとつ違うのが映画部・前田涼也が好きな映画のカテゴリです。

小説では日本映画の恋愛ものや青春ものが好きで特に犬童一心岩井俊二の名前が挙がっているのに対し映画版では塚本晋也監督が尊敬され本人たちが撮る映画もゾンビものになっています。

この改変もまた吉田監督の好みなのか、それとも「恋愛映画を撮りたいというのでは絵的に面白くないからゾンビ撮影というので画面を派手にしよう」という策略なのでしょうか。

私が思うにはこれは「流行りのゾンビ映画にすれば受けが良い」という目論見と「高校生だからその程度だ」という安直さが感じられてしまうのですが、それと同時に吉田監督は犬童監督と岩井監督の映像を自己作品に差し込むのが嫌だったのではないかとも思えたりします。

私自身塚本晋也映画が好きで犬童・岩井はイマイチ、と思っているのでどうも同じ匂いがしてしまうのですよ。

吉田監督のプロフィールでは

大学4年間で映画を観まくり、『仁義なき戦い』や『太陽を盗んだ男』などに感銘を受けた

と書かれており観まくったのは涼也君と同じですが好みの傾向はまったく違うようです。監督はどうしても自分の好みではない映画を涼也君の好みにしたくなかったのです。

しかしこの好みとたぶん学生時代に女子に好かれなかった(のであろう)ことから吉田版『桐島』では涼也君とかすみは相思相愛にならない、というよりもかすみは心底で涼也君を嫌っていてちゃらい竜汰とできている、というとんでもない設定に変えられてしまっているのです。

これは吉田版としては当然なのでしょうけどかすみという映画好きの少女が映画にはまったく興味のないオタク嫌いに変更されているのは私としては許せないことでありこの一点で私はこの映画が嫌いになってしまいました。

 

それだけでなく吉田版『桐島、部活やめるってよ』は女子への嫌悪・軽蔑が充満していると感じられます。

それはブラス部の沢島亜矢の描き方において明確です。

朝井リョウ氏が描く沢島亜矢は映画と違ってちゃらい竜汰に片思いしています。

そして友人が軽く竜汰を好きだというのを羨ましく妬ましく思いながらその姿を可愛いと評価しています。そうした沢島亜矢の心理描写は女性が読んでも共感できる複雑なものでもあり健気でいじらしいと思えます。

 

翻って吉田版沢島亜矢は思いきり迷惑女子として登場します。

各個人の語りだった小説を一つの物語に落とし込んで関連性を持たせる工夫ではあるのですが映画部の撮影の邪魔をし、宏樹のストーカー的存在になって沙奈とのキスシーンを見せつけられる、というエピソードが作られますがここでも女子はえげつない虚栄心を持っているものだという吉田監督の主張が押し付けられます。

ここ、こっそりキスしていたけど実は亜矢が見ていたのを知っていた、というのならまだいいのですがあまりにもあざとすぎで吉田大八という人物は女子への憎悪が半端ないのではないでしょうか。

 

つまりこの映画作品では男子はそれぞれやりすぎはあっても一途だという「男子って良いね」と描かれ女子は全員嫌な奴ばかりと表現されているのです。

これは朝井リョウの小説ではまったく感じられないものです。

朝井リョウ氏は男子にも女子にも同じように優しい視線を感じます。

特に宮部美香という女子のエピソードが小説と映画ではまったく違うのです。

宮部美香は朝井リョウ版ではソフトボール部に属し実父を亡くして義母と生活をしているという複雑な設定です。

その義母は死んでしまった実娘の名前で美香を呼ぶのです。高校生の美香にとって辛く悲しいこの状況を美香は受け入れようと決心するのです。

が、吉田版では美香はかすみと同じバトミントン部になっていてこの印象的なエピソードは語られません。

つまり吉田監督は女子にはまったく独立した個性を与えないのです。

 

男子には好意的であり女子に対しては軽蔑しかない、そうした表現をミソジニーと呼ぶのだと改めてこの映画で感じさせられました。

原作では感じなかった女子への憎悪・嫌悪、それが吉田大八監督による『桐島、部活やめるってよ』です。

 

もしかしたら吉田監督自身はこのことに気づいていないのかもしれません。

なぜなら女子・女性はこういうものなのだと信じ切っているからです。