私が読んだ『源氏物語』は田辺聖子著『新源氏物語』(今風にいうと『シン・ゲンジモノガタリ』)です。なのでここで書いていることはそこからの引用・感想となります。
田辺聖子氏によればあくまでも「主人公である光源氏を魅力的な人物として描くこと」とされていたようですが読めば読むほど光源氏には何の魅力もないことを感じてしまいます。
しかしそれが物語の面白さを深めていることになるのは確かなのです。
これは計算なのかどうか、若い頃の源氏は純真であるために男性の粗暴さがある種の魅力にはなっているものの年齢を追うごとに嫌ったらしい「オヤジ」になっていくのは見事としか言えません。
一方の紫の上は年を取るごとに悲しみを深めていきます。離れ離れになっても愛は確かと誓い合った矢先に源氏は左遷先の明石で紫以上の淑女と思える明石の君と子供まで成してしまう仲になります。
先にも書いたように本作の中で子供ができることは「深い愛情」「幸福」を意味している、というのを考えれば紫の上にとって自分には子供ができず源氏と明石の君の間に美しい娘が生まれたのは衝撃だったはずです。
源氏はその娘を明石の君から取り上げ紫の上に育てさせることでそれらを「胡麻化して」てしまいます。源氏が何度も紫の上こそ最上の女性だと思う、という文章が書かれるのですがそのたびに「源氏はそう思い込もうとしているだけではないか」と私は首をひねってしまうのです。
というのは紫の上のどこが「最上の女性」なのか、さっぱりわからないからです。
ただただ紫の上は「光源氏にとって都合のいい女」だということだけは確かです。
紫の上は源氏が最初に恋した義母の血縁で顔も似ています。素直でいうことをよく聞きます。身寄りがないため誘拐することができました。そのため12歳ほどでまだ何も知らない時期、男女の性のことも他の男性のこともまったく知らないままにレイプすることができしばらくの間は怒っていましたが、源氏以外に頼る人もない彼女はやがて言いなりになるしかありませんでした。
この時代の貴族の女性の常として彼女は完全に源氏の屋敷に監禁状態となって生涯を過ごします。
それについて文句も言いません。
源氏はその後も幾多の女性と性交し続け、彼女にその様子を語って聞かせると約束します。そのことは彼女が望んだように書かれていますが果たしてどうなのでしょうか。
源氏は紫の上が「醜い嫉妬をしないが可愛く拗ねてみせるのが良い」とたびたび感心します。これはもう源氏がそのように仕向けているとしかいえません。
後年、紫の上は最も恨みに思った明石の君とも友情を結び源氏を安心させます。
しかしその後、源氏と地位の高い女三の宮との結婚は紫の上を叩きのめしたはずです。
自分がそうだった頃と同じ年齢ほどの少女との結婚を源氏はいつものように「上司からの命令で仕方なく」という形で引き受けるのです。
真の男なら、紫の上を愛しているのならなぜきっぱりとはねつけないのか。
ここはもういかにも「日本の男性らしい立場主義の優柔不断」としか言いようがありません。
(立場主義、というのは安冨歩教授から学んだ言葉です)
私は光源氏ほどむかつく男はいないと思いますし、同時に日本男性の写し鏡であるとも思います。
そして紫の上も日本女性の写し鏡であるようにも思えます。
少なくとも「女性ならばこうであれ」「こうであろう」とされる姿が紫の上なのです。
しかし現在の感覚で見れば紫の上ほど「残念な女性」はいません。
彼女になるならまだしも弱弱しいながらも別の若い男と不倫をしたあげく出家を遂げた女三の宮のほうに「自我」を感じるのです。
しかしもっと以前に作者が作り上げた「理想の現代女性」がいます。
それが玉鬘です。
彼女もまた源氏がかつて愛した女性の娘、という存在なのです。しかし彼女は明石どころではない地方、筑紫(九州)で育ちながら類まれな美貌(ってこればっかですが)と打てば響くような才覚を持っていました。
彼女を養女にした光源氏はここでも性交を求めます。
しかし怯えながらも玉鬘は抵抗をし源氏が思い惑っているうちに髭黒大将と結ばれてしまうのでした。
作者は明確に光源氏の思い通りにはさせじと玉鬘を行動させたと思います。
彼女は籠の鳥である紫の上とは違い「働く女性」としても表現されます。
地方出身者でありながら花形企業に抜擢されしかも高年収の男性と結婚して子だくさん、しかもセクハラパワハラモラハラ男は突き放す、という女性としてあるべき姿、として作者が描いたのはこの玉鬘なのではないかと思われます。
しかし一般的に「玉鬘」が言及されるのを聞いたことがありません。
別に私としては玉鬘が「女性としてあるべき姿」とは言いませんがスカッとする存在ではあるはずです。
しかしなぜか日本では惨めで悲しい女性のほうが受けてしまうようにも思えます。
次回はその悲しい女性の話になりそうです。