ガエル記

散策

女と男と

昨日書いた記事「彼女は頭が悪いから」で思い出したのが小説「ミスター・グッドバーを探して」と書きました。そして「ミスター・グッドバーを探して」を読み返していると思い出すのが「東電OL殺人事件」(佐野眞一)とその事件から書かれた小説「グロテスク」(桐野夏生)と繋がってきます。

 

男性社会の中で女性は優秀であればあるほど苦しみもがかねばならない。その中で自我をできるだけ抑えて要領よく立ち回ることができるか。それができなければ自我は歪み人生の軌道は少しずつおかしな方向へずれていくのだ。

 

男だって同じように苦しまねばならない、と男性は言うけど、優秀であれば頂点やその周囲に立てる。しかし現状日本の社会で女性が頂点に立つのは不可能に近い。そして頂点が男性である限り、その社会は男性優位であり男性を中心としてすべてが決められていく。仕事の一部に出産や授乳や育児が組み込まれていくこと、上司や取引相手への歓待が女性のサービスのある店でなくなること、特に良いとは思わないが上司や取引相手が女性のお偉いさんならイケメン男性がもてなす店も増えるでしょう、ということ。テレビで観る国会やら外国との会談で女性がずらりと並んでいること、を体感するまでは日本で男女が対等になったとは言えないはずです。

 

先日昼のトークショーで「そんなに言うならもっと女性の政治家が何故出てこないんですかね。TVの司会者も男ばかりだし」と言うのを見てしまいました。

そう。なぜなのか。

私はこれというのはいじめや痴漢やレイプ事件なども含めてすべての女性の抱える問題に通じていると思うのです。

何故日本の家庭ではいつまでも男性が家事をしないか。陰で不満を言い苦しんでいても男性が対等に家事をするようにならない、ということなども含めて。

つまりは日本の社会そのものが変わっていかないと無理なんですね。日本人の意識そのものが。

といっても少しずつ自分たちで変えていこうと思わなければ変わらないわけです。

まずは学校で先生、という制度をなくしてしまう。先生に従う、という意識が女性を委縮させ発言する気持ちをつぶしていると感じます。

本当は学校そのものを無くしてしまうほうが早いとさえ思うのですが、学校を続けるのなら先生を無くす。

女性が特に男性の教師に押しつぶされてしまうことがいじめや痴漢・レイプ事件につながってしまっているのです。

校長はすべて女性にする。後々には男女半々でもいいけど女性の意識を変えたいのなら校長を女性にしなければ「やはり一番上は男性なのだ」という深層心理が植え付けられてしまうでしょう。

子供時代に人間の価値観は決まってしまいます。後から変えようとしてもそれは表面的なことになってしまう。

子供時代は誰かに守ってもらわないといけない。一番上にいるのが男なのか女なのか、それを子供時代に記憶してしまいます。

ご飯を作ってくれるのが男なのか、女なのか、それを子供時代に学びます。

そういう変革をしてしまわなければ「男女平等に」といつまで言ってても変わらないでしょう。事実私が子供時代から日本社会の男女の意識がそう変わったと思えないのです。つまり50年以上日本の男女の意識は変わっていないのです。

むしろ退化しているように感じることすらあります。

そして重要なのは男性の意識が変わることです。

男女が対等に仲良くできる社会はとてもいい社会なのではないのでしょうか。