ガエル記

散策

『レベレーション』山岸凉子 完結したジャンヌ・ダルクの物語 その4

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続けます。

山岸凉子他の作品についてもネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

タイトルに「完結した」と書いてしまいましたが、山岸凉子という作家においてこの物語は完結したのでしょうか。

 

山岸凉子ほど自分の内面を見つめ恐ろしい心理を描き抜いた作家はいないと思っています。

特に日本の男性作家は(小説家、漫画家、映画作家などなんでも)内面を見つめるのを避けてきたのではないかと思っています。

彼らは物語るのは社会的事例であって人間特に自分の内部を語る必要はない、むしろそうした作家は劣っていると信じているようです。が、実際は内面を見つめることこそ大切なのではないでしょうか。

それは他への思いやりにもつながるはずです。

自分を思いやれなければ他人も思いやれないのです。

 

私は忠実なマンガ読みではなくかなり中断した時期もあるのですが、山岸凉子作品は後追いながらかなり読んだのではないかと思っています。

これまでも書いてきたように山岸氏の物語の核には日本社会の男尊女卑への苦悩があります。

山岸氏は日本社会の男女の「立場主義(安冨歩教授のいわれる)」にこだわり続けている作家です。

そのことは『レベレーション』6巻巻末で対談した言葉からも伺えます。山岸氏は『逃げ恥』の作者・海野氏のこだわりのなさに感嘆し「私は役割意識にとらわれてそこから抜け出そうと苦しんでいる人を描くのだけど」と語っています。

実に山岸氏はこれまでの作家生活でずっとそのことだけをテーマに描き続けてきた、と言っていいのです。

しかもいまだにそこから抜け出していないのです。

彼女の苦しみは男尊女卑が嫌なのに日本社会がそうだということではなく、「自分自身が男尊女卑しか考えられない」苦しみなのです。

彼女の理想の男性は常に女性を教え導く知性のある美しい男性であり、愛する人を守る強い男性である、と定まっています。そのイメージは家父長制と強く結びついています。一方そういう男性が求める女性はいわゆる女性的な女性、家事育児が上手く、か弱く男性の庇護下にいることを素直に求める女性である、そしてなによりも若さとエロチックな美貌の女性である、と山岸凉子は決めつけています。またそうであることが多いのも事実でしょう。

山岸氏は自分の理想の男性の求める女性像が自分自身とはズレがあることに苦しみます。年々その溝は深く大きくなっていきます。その男性が求めるのは「若い美しい女性」なのですから。と、山岸氏はずっと語りつづけてきました。

 

私自身は「そうでもないのでは?」と楽観的に思ってしまう派なのですが山岸氏の思いつめた考えに感心しながら読み続けてきたわけです。

 

日出処の天子』の厩戸皇子山岸凉子自身が投影されているはずです。

同じように『レベレーション』のジャンヌ・ラ・ピュセル(=処女)にはもっと生々しく自身を投影したはずです。

彼女の生き様は過酷で見ていて辛いものです。山岸氏の作家人生はそのようなものであったのではないでしょうか。

しかしここにきてやっと氏が長い間の苦しみ「理想の男性を求めてしまうけれどもその男性に愛されるためには家父長制に取り込まわなければならないのだ」という苦しみから逃れられたのだと私は喜ばしい気持ちを感じていました。

 

そうです。

どの男にも頼らず神の声のみを信じて生きたジャンヌ・ダルクを描くことで山岸凉子が初めて苦悩から脱出できたのだと6年間信じていたのです。

がそれは最終巻の最後ですべて覆されました。

ジャンヌが愛した男性は神そのもの、イエスだったのでした。

そしてイエスという男性にジャンヌは導かれ彼と結ばれたのです。

 

果たして。

山岸凉子がこの苦悩を断ち切り自由になれる日は来るのでしょうか。

 

ケサランパサラン』の若き恋人たちですら制度から逃れてはいません。

作品の中で可愛らしい女子大学生である紫苑は料理が得意でハンサムな恋人・樹(いつき)がその食事に「餌付けされている」と山岸氏は描くのですがその発想の古めかしさにはさすがに唸りました。この樹くんもやはりいつもの山岸男子です。

知的でガールフレンドを教え導きます。コメディ作品でもこのパターンから外れることはありません。

 

果たして。

山岸凉子が「日本社会の男尊女卑」をぶっ壊してしまう日はくるんでしょうか。

それをぶっ壊さなければ幸福は来ないんです。

山岸凉子氏だけでなくリアルに日本社会もそうなのです。