岡田斗司夫さんのニコ生で凄く気になった言葉があります。(しょっちゅうではありますが)
それは「日本の俳優の演技は下手で見る気がしないが宮崎駿監督のアニメの演技は素晴らしいんだよね」(おおよそこういう感じでした)というものでした。この言葉を聞いて私は心底びっくりしたのです。
そして長い間疑問に思っていたことがこの言葉で解決したように感じたのでした。
さてこの言葉のどこに私が驚いたのか、そして長い間の疑問とはなんなのか、話していきたいと思います。
岡田氏の言葉、前半の「日本の俳優は演技が下手」というのはまあまあ良く聞く評価です。どういうところが下手なのか、どうすればいいのか、などには興味がそそられますがそれだけであればぎょっとする必要はありません。
でも後半の「宮崎駿監督のアニメは演技がうまい」という部分にはちょっと驚きました。
「アニメの演技が上手い」とはどういうことなのか。アニメの人物と言うのは所詮、線と色でしかありません。キャラクターを担当する声優さんが上手い、ということはもちろんあるわけですが、この場合は「宮崎監督のアニメ」についての発言なので声優の演技を褒めたわけではありませんね。
単なる絵であるキャラクターが演技をしているわけじゃないことは誰でもわかります。という事は演技をしているのはつまりさせているのは宮崎駿監督自身ということになります。
宮崎監督の描く表情が表現豊かということなのでしょうか。しかし宮崎アニメのキャラクターはそれほど表情が細かく描かれているわけでもないように思えます。
この後の岡田氏の説明を聞いていて、私は今まで「うまい演技」とか「うまい演出」とか何となく話していたものが実はまったくわかってなかったことに気づきました。
今でも理解しているわけではないことだけは判っていますが素人がなんとなくつかんできたことを記してみますね。
岡田氏はさらにそのキャラクターの顔の角度や視線の置き方動かし方によって演技がつけられていくと説明してくれました。
ということはつまり演技と言うのは「人間の感情」なのではなく視線や体の動きをどうするのかで表現できること、というのではないですか。
「絵」自体に感情はありませんがそれをどう動かすか、という物理だけで観る人はそこに「感情」を認識する。
それならば上手い演技というのは視線と体の動き、だけの問題なのであって心を表現することではない、ということになります。
演技の勉強をした人であるなら当然の事を言ってるのかもしれないし、逆に的はずれかもしれませんが話を続けます。
日本の俳優は演技が下手だ、という話はあちこちでされています。気になってネットで探してみたら「日本の俳優の演技は記号である」「表現が大げさに作られていて自然ではない」ということを書いた記事がありました。
この理論はいまいち自分としてはしっくりこなかったのですね。冒頭で書いた岡田斗司夫氏の意見のほうにピンときた者としては当然そうなります。
つまり私が考えたのは、むしろ「演技と言うのは記号化できるのではないか」「表現は自然にではなく人工的にするものである」ということなのです。
日本の人気俳優、というのは男女とも凄く若い人に多いです。そして経歴も俳優の学校に行った、とか厳しい稽古をつけられてきた、という人はほとんどいないようです。
そしてたぶん(現場を知らないので想像ですが)これもあまり勉強してこなかった映画・ドラマの監督から「もっと感情をこめて」とか「もっと自然に普通に話して」というような指示で演技しているのではないかと思えます。「普通のきみのままでいいんだよ。変に演技する必要はないんだ」なんて言われていそうに見えます。
ところが演技と言うのは自然にできるものではなく形式的なものであり、計算された数学なのであり、その形を完璧に作るための訓練が必要なものなのだとすれば、何も知らず訓練もしていない若い俳優たち、そしてそういったものをまったく学ぼうとしないまま年数だけを経ていった俳優たちも含めて演技が上手いわけがないのです。年上も年下も演技が下手ばかり。このままでは日本の映画ドラマは成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。
ここで歌舞伎役者が登場してきます。
今の日本のドラマ界には歌舞伎役者は必要です。彼等は長年「演技指導を受けてきた人たち」だからです。
演技は形である、ということを代々、そして子供時代からみっちり仕込まれてきた人たちが今の日本の映画ドラマ界で活躍しているというのはどういうことなのでしょうか。
彼等こそ「演技は記号」であり「大げさな演技」を特訓されてきた人たちなわけですが、そういう演技がいけないものであるなら日本の俳優たちの中心になって活躍できるはずはありません。が、現実には彼等より上手く演技できる俳優は日本にはいないのです。
上手い演技とは「自然な演技ができる」「大げさにならない抑えた演技ができる」ということではなく「その感情を示す動き・声・視線を的確に形作れる」という極めて人工的なものであり科学として理論だてられるもの、ではないのでしょうか。
ですから人間ではないアニメのキャラクターのほうがよりうまい演技ができてしまう、物理的にそう示せば観客がそう受け取るから、という理屈ができるわけです。
さらによく聞く話で「その役になり切る」「憑依型」を凄い俳優だと賛美する向きがあるように思えます。
が、そんな身も心も没頭してしまう俳優になる必要はないし、それはむしろ上手い演技ができないための残念な方法なのかもしれません。
ちょっと変な例えですが自らのしっぽを切り離して観るものの目を欺くかのようです。
上で書いたことが「上手い演技」の説明足り得るなら「上手い演技」は形だけ表現していけばできるはずです。つまり心の中で別の事「今晩何食べようかな」などと考えていても「感情を最高に表現した素晴らしい演技だった」と評価されるはずなのですね。
訓練された視線・声・動きであるなら心は別でもいいというわけです。
日本の俳優は演技が下手。当然です。
なにも演技の勉強・訓練をしないままできるだけ若いうちに、と主演をさせられる。
そしてそのまま年を取っていく。
経験は積んでも勉強や訓練は別のものです。
また悲しいことに映画やドラマを作る側にも理論が感じられません。本当はこちらが問題なのです。
演技者が下手でも演出家によってそれは変えられるからです。
無論、それらを全部含む「芸能界」という日本の組織自体が腐敗してしまっているのが根本原因なのですが。
話を演技に戻しましょう。
こうした勉強や訓練の理論は俳優の演技だけに限らずスポーツや音楽、勿論様々な職業に関しても同じことが言えそうです。
俳優の演技も同じである、というだけのことなのです。
料理も自然にやれば美味しくできるわけではなく大げさでなく抑えれば上手くできるわけでもないですね。時間とタイミング、調味料の分量が的確だから美味しくなるわけです。
演技も同じだということですね。
どうすればどう表現できるのかの勉強とそれを形作れるための訓練。
「ガラスの仮面」は何度も読む大好きなマンガ作品ですが、そろそろ科学的に分析して訓練していく演劇マンガが登場してほしいものです。
演技は科学そして化学、として勉強・訓練していかなければ発達はありえません。