フィギュアスケート見るのが大好きなのでリルハンメルも観ていました。トーニャ・ハーディングのイメージはとても悪いものだったのは忘れられません。実を言うとこの映画で騒がれているケリガン事件を私はどういうわけか知らなかったもしくはまったく覚えてなかった(!)のですが、それがなくてもハーディング選手に好意を持てる気分にはなれませんでした。
容姿もスケーティングも全体的な印象もこれまで見て来たフィギュア選手に対して抱く確かに「美しい妖精」のような憧れをまったく持てない選手でした。しかも演技途中で中断し靴の紐が切れたと泣きながら訴えるのを見た時はあまりの品格のなさにあきれ果て強い嫌悪感として記憶され、これは忘れることはできない強烈さでありました。
大会後、プロレスラーになったとかいう噂を聞いたりはしましたが無論何の興味もなく「変わった人だなあ」と思っただけでした。他の事はまったくなにも知らないままでした。
そのトーニャ・ハーディングを主人公にした映画が作られた、と聞いた時には「なんで?ふざけてるなあ」と思っただけで絶対観ることはないと思っていました。
その後、非常に評価が高いことも聞いてますます「???」となっていましたがそれでも「絶対観たくないなー、ハーディングなんて最低だし」と思っていたのですがテレビ放送番組欄で見かけた時はちょっとだけ見て消せばいい的な好奇心で予約しました。予約録画されたものを数分見た時には「なに?これ」という衝撃で観続けてしまった、という次第です。
まったくこれはいったいどういうことなのでしょうか?
実在の人物、それもスポーツ選手、となれば映画化されるとしたら「尊敬され憧れを受けるにふさわしい立派な求道者」というイメージがあります。
女性であればさらに美しさや優しさも求められるでしょう。フィギュアスケート選手となれば余計に芸術的なセンスまで必要と言えます。
そのどれもないような女性でした。
貧しい家庭で粗野で下品な親に育てられやはり本人もその通りに育っていく。ただなぜか神様は彼女にフィギュアスケートの才能だけを余分に与えたもうた。なぜ?
映画的な過剰な演出はあるのかどうか私にはわかりませんが、父親は途中で逃げ出し、母親からは虐待と言っていい扱いの中でトーニャはフィギュアスケートを続けていきます。
今はどうなのか知りませんが一時期アメリカではフィギュアスケート教育が盛んで多数の親が子供にフィギュアを習わせた、ということを聞いたことがあります。彼女もそういった流行りのようなものの一員だったのでしょうか。
品のある芸術性を求められるフィギュアスケート演技においてトーニャは審判たちから高い評価は得られない。彼女の武器はアメリカ人では唯一のトリプルアクセルが跳べることでした。
(日本選手では伊藤みどりがトリプルアクセルを跳び「フライングガール」と呼ばれていたことは忘れられませんね)
ただ世界はそんな彼女を否定しました。「おまえは間違っている」と。
映画を観てこんな世界観があるのかと思ったのは久しぶりのことです。
社会というのは社会が持つ印象と違うものを排除しようとします。
女性はこうであれ、スポーツ選手はこうでなきゃいけない。
トーニャの両親や恋人たちの言動が良いことだとは思えないけど、トーニャのフィギュアが素晴らしいとは言えないけど、それでも彼女のような生き方があるのだと見入ってしまいました。
この映画で言う「スキャンダル」は人を傷つけるものでそれは許されることではないのは確かです。
だけども「映画」というのは品行方正な人だけを描くものではないのですね。
この映画が語るトーニャの生き方は観る者をぶちのめす力がありました。
観たくないほど粗野で荒々しく下品でありながら「私を見ろ」という。「これが私」というものでした。
こんな映画が作られるのならすべての人の映画が作れるはずです。
どの人もすべての人が「私」であるのだから。
映画と言うのは物語と言うのはそういうものなのだと初めて知ったような気がします。
あまりにもぶざまだと嫌悪感しかなかった女性を描いた映画がまるで宝石のように今は思えてならないのです。
人間を描く、ということはそういうことなのだと教えてくれた作品でした。