ガエル記

散策

宮沢賢治と「八紘一宇」

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私は宮沢賢治が大好きであの美しさと可愛らしさに憧れている者です。好きになると作家のことをいろいろ調べたくなるもので私もたいした分量ではありませんが少しはあれこれと読んでみたりしました。

そうすると宮沢賢治という人はいろいろ謎めいたというか表向きの顔だけではない側面が見えてくるのですね。

 

私自身そうですが多くの人が賢治と出会うのがあの「雨ニモマケズ」の詩でありましょう。実を言うとあの詩のせいで妙な教訓めいた印象がつけられて賢治に反感をもってしまったりします。後に他の作品を読んで「こんなにも幻想的な世界観を持った人だったのだ。なぜ最初に教えてくれなかったのだ?」と憤慨した人も多いのではないかと思うのですが、さらに進むと再び「雨ニモマケズ」を読み教科書にはなかった文章が最後についていることに気づきます。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経

たぶん日本人なら多くの人が知っている日蓮宗のお題目です。悪い言葉でもないはずなのになぜこの言葉が教科書などからは外されて掲載されているのでしょうか。

 

日本という国は奇妙なほど自国に多い宗教ほどあまり口にしないという風習があります。

キリスト教の言葉はあっさり用いられていても仏教や神道はあまり強調したくない、という暗黙の了解のようなものがあります。

 

宮沢賢治の作品でもキリスト教を感じさせる部分はあまり削除されていないように思えるのですが、日蓮宗のお題目が「雨ニモマケズ」の最後に記されるのは日蓮宗を強調することとして厭われてしまった、と考えられます。

 

宮沢賢治日蓮宗を深く信仰していました。当時日蓮宗にあった国柱会信行部に入会し田中智学先生のご命令の中にある、として活動していたのです。

親友だった保坂嘉内にも入信を勧め断られていたことも記録にあります。

田中智学は「八紘一宇」という言葉を作り、この言葉が後の大東亜共栄圏のスローガンに用いられたことで戦後はこの言葉が日本のアジア諸国侵略の意味となってしまいました。

本来は世界中が一つの屋根の下で暮らすという平和を願ったという意味がありながらそれが侵略戦争へとつながっていく、ということは不思議でもありまたうなずけるとも思うのです。

つまりはこうした経過のために「八紘一宇」をうたった田中智学と彼が属する国柱会は触れられないものであり、さらに日蓮宗もまたそうであり、子供に読ませたい立派な心がけの詩「雨ニモマケズ」の最後に日蓮宗の題目が記されているのは「非常にまずい」ことであったのでしょう。

そして多くの宮沢賢治ファンにとって彼がこういった信仰に深く傾倒し、田中智学を敬愛し活動も熱心に行っていたというのはあまり聞きたくないことなのでしょうか。

賢治は体が弱く37歳の若さで亡くなってしまいますが健康で長命であったならもっとこうした活動に没頭しやがては童謡だけではなくさらに思想を強調した書物も書き記したかもしれませんがそれは想像の範疇でしかありませんね。

 

宮沢賢治の描く世界はあまりにも美しすぎる、とも思えます。「銀河鉄道の夜」「グスコーブドリの伝記」どちらも他人のために我が身を犠牲にして死に逝く若者の物語です。非常に幻想的な美しさに見惚れてしまうのですがやはりとても悲しい話なのです。

賢治の物語は確かに《八紘一宇》の思想が色濃く表れています。誰もが幸せでなければ本当の幸せではない、その言葉に心打たれた人は多いでしょう。

 

そしてその言葉とその思想は美しいだけではない激しさもまた含み得るのです。

 

宮沢賢治の世界を強くイメージしたアニメに幾原邦彦輪るピングドラム」で主人公の少年が次第に過激なテロリズムへと向かうさまは強く共感できるものでした。

このアニメ作品は宮沢賢治の言葉が用いられているというよりも賢治そのものであると思えます。

 

また、半藤一利は「あの戦争と日本人」第五章【八紘一宇】の中で宮沢賢治について触れています。私はこの文章を読んで触発されブログ記事を書いてしまったのですが、宮沢賢治の透明なほど美しい世界が少し進めばどう変わるのか判らない、という危うさを実感させられました。

 

宮沢賢治の作品が美しい、という気持ちは変わりません。

美しさ、というのはそういうものなのかもしれません。

カムパネルラもジョバンニもブドリもかわいそうなよだかも可愛らしい二人の童子にも同じ危うさは秘められているのかもしれません。

やがて玉を壊してしまったうさぎもかま猫も。

宮沢賢治の星がこぼれてくるような文章を読みながら深く読み込んでいきたいと思うのです。