昨日の続きです。違う話になりますが。
誰からも心底愛されてしまう美しい若い女性。そして溺死体で発見される、というふたつの共通項はなかなかないのでは、とは思いますがだからといって『ツイン・ピークス』が『レベッカ』のパクリとは誰も言わないでしょうし、私も思いません。『ツイン・ピークス』はそんなワンアイディアで作られた単純な物語ではなく夥しいほどのイメージで作り上げられているからです。この二つの共通項はその中のほんの一部です。
とはいえ、老若男女すべての人間から好意を持たれていた、聞けば誰もが「あんなにステキな人はいなかった」「大好きだった」「あの人がいなければ生きていけない」と口々に言われる、天使のような美しい女性が実は深い闇を抱えていたのだ、という設定は酷く心を惹きつける大きな要素であることも確かです。その闇というのが異常な性関係にあることも同じです。
そしてその女性が誰からか殺され溺死体で発見される、という表現にも惹きつけられてしまうのです。
特に『ツイン・ピークス』のローラの溺死体の顔はドラマのキャッチコピー「世界でも一番美しい死体」とともに忘れられないものとなっています。
『レベッカ』はトラディショナルなゴシックホラーであり、『ツイン・ピークス』はアメリカという独特な場所でのゴシックホラーとなりました。
独特の場所、というのは白人にとっては歴史の浅い若い国、と言えますが実際には他の場所と同じ古く長い歴史と営みがあるわけです。そうした事実に目を背けて歴史が浅いと言ってしまう独特の場所となります。
『ツイン・ピークス』の背後には大自然の脅威も存在していると感じさせます。
アメリカには長い歴史があるわけです。白人種が訪れてからの歴史が短いだけ、ということですね。
『ツイン・ピークス』の恐怖は人間だけではなくもっと大きな脅威、畏怖が世界に存在することを描いていると思います。
それはデュ・モーリアの『レベッカ』も同じなのですが、ヒッチコックの映画になるとそうした大自然(宇宙といってもいいのですが)への畏敬は薄れ、いや無くなってしまいます。
ヒッチコックにとって恐怖なのは人間であって宇宙、などというものではなかったのでしょう。
「鳥」もデュ・モーリアが原作とのことですが(こちらは未読)デュ・モーリアが明らかに自然への畏怖を持っているのにヒッチは感じていない気がします。
ヒッチは明らかに美女が「きゃあ」と叫んで怯えている様子を映したかっただけなのではないのでしょうか。
どうにもヒッチを見てるとオタク男の「美女をいじめたい」欲望が丸出しになってるのが明確です。
ちょっと余談になってしまいましたが。
ところで『レベッカ』を検索していたら思いもよらないことを知ってしまいました。
松岡正剛さんのブログに「レベッカ」という名前の女性は旧約聖書で「画策する女性」として描かれている、ということが書かれていたのです。
私は結構旧約聖書を読むのが好きなのですがこれは思い出しませんでした。
ちなみに手元にあるワンゲリンのものによると名前は「リベカ」として出てきます。
リベカは自分の息子である双子の兄弟の弟ヤコブを溺愛しているのですが、財産を譲る権利を持つ夫は兄のエサウを気に入っていてある日とうとう兄エサウに祝福を与えたいから獲物を獲ってきて料理するように、と言い渡します。
慌てた母親リベカはお気に入りの弟ヤコブに兄さんより早くヤギを調理して父からの祝福を受けなさい、とそそのかすのです。
兄は毛深くて自分はそうでないからばれてしまうというとリベカはヤギの毛皮を触らせれば大丈夫という悪知恵まで働かせるのです。
レベッカ(リベカ)には「魅惑する者」という意味があるのですが旧約聖書を知っていればこうした「悪知恵を使って画策する者」という意味あいも感じさせるのかもしれません。これは面白いことだと思います。
歴史は繰り返す。
人間は宇宙と自然の中で生きている一部でしかない。