ガエル記

散策

ふたつの『シャイニング』スタンリー・キューブリックvsスティーヴン・キング

 

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テレビでまたもや『シャイニング』を放送していたのでついつい観てしまいました。

原作と大きく志(こころざし)が違う、ということでスティーヴン・キングから嫌悪を示されたキューブリック映画です。

これも考えていたら昨日まで書いていた『レベッカ』での原作と映画の違い、小説家と映画監督との思考の違いを感じさせるものでありました。

 

このふたつだけをとって「すべての」というのは烏滸がましいし、早とちりであるかもしれませんが小説家がこの世界の支配者は人間の知識を超越したところにある、と表現するのに対し、映画監督は人間自体に興味を向けてしまうのかもしれません。

それは小説家の武器である文章は思考そのものを表すのに対し、映画監督は人間の言動で表現していくからなのでしょう。

 

そのなかでデヴィッド・リンチという映像作家だけは恐怖を人間の仕業ではなく世界そのもの大自然のなりわいであると表現できる映画監督なのだと思えます。

 

確かに『シャイニング』という映画は『シャイニング』というタイトルを掲げながらその実シャイニングについてまったく描いていません。

しかし観客はもうそんなことはどうでもよくなって可愛いダニー坊やにはらはらし、ジャックの狂気に怯え、それより怖いウェンディママの恐怖の表情にくぎ付けになってしまうわけです。

 

上であげた画像も映画版がふたりの怖ろしい顔のアップがいつも取り上げられるのに、小説の表紙がオーバールックホテルになっているのが象徴的でありましょうか。

わたしが持っている本は1986年第一刷で表紙が違うのですが。翻訳は同じく深町眞理子氏です。

 

そして『レベッカ』も小説『シャイニング』も人間に憑りつき動かしていた大きな建造物が激しく燃え上がる最後で終わります。

建造物、ではありますがそれは単なる物体ではなく長い時の中で怖ろしい「ナニカ」となってしまったものなのです。

小説家はそうした物体である建造物にも魂が宿ってしまうことを感じ書き綴るのに対し、映画監督は人間の狂気だと断じてしまう傾向にあるのかもしれません。

繰り返しますがデヴィッド・リンチを除いては。

 

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