いっそうおもしろくなっていきます。
ネタバレします。
上様の口の中の黒いシミを調べたい良庵はイギリスの医書の中にその症例が書いているのではないかと考えるが英語が読めない為どうしようもない。
そこで思いついたのが伊武谷万二郎に頼めば来日しているアメリカ人に読んでもらえるのではないかということだった。
急ぎ江戸に戻り無理を押し切ってヒュースケンに訳してもらい黒いシミの原因とその治療を知った良庵は伊東玄朴先生に伝えるが橋渡し役の元迫が監禁され元の木阿弥に終わる。
万二郎はいつもどおりヒュースケンたちの護衛をしていたがヒュースケンの馬に毒針が刺さっているのを発見し犯人を捜し出した。
その様子を見ていたのが西郷吉之助であった。
彼は橋本佐内から伊武谷万二郎の話を聞いていたのだ。
西郷は万二郎に親し気に話しかけ万二郎は警戒するがここでも藤田東湖の名前が出たことで一気に心を許す。
夜更け、ふたりきりで酒を飲みこれからの日本について西郷は語った。
西郷は家定の命が長くないと語り時期将軍を慶喜様に決めてもらいたいと万二郎に話して聞かせる。そして万二郎に慶喜様が時期将軍になったあかつきには一肌脱いでもらいたいというのだった。
かつて見学した洋式調練の教授をしてくれというのだ。
西郷は一人でしゃべって一人で面白がって帰っていった。
が、さすがの万二郎にもこの巨大な改革グループの全容がおぼろげにわかってきた。
そして自分もその政治グループにいつのまにか結び付けられていることに焦りと戸惑いを感じそして無性に腹が立ってきたのだった。
コンスル、ハリスと日本政府との交渉は暗礁に乗り上げていた。
ハリスは自由交易を望んでいたが日本側は品川神奈川新潟の三港のみの会所交易しか許可できないと言い張っていた。
これにハリスの怒りが極限にきていた。
明けて安政五年。
老中堀田正睦はハリスに「三月五日までに答えを出す」と約束していた。
それには朝廷から「調印」の許しを得なければならない。そしてそのためには莫大な裏金をばらまく必要があった。貧乏な公家たちを金で動かすのだ。
しかしこれは結局うまくいかなかった。
万二郎は突然おせき殿の父親から呼ばれ心躍る。もしやと思っていたらなんとこの父娘の住む寺がハリスたちアメリカ使節の住居として使われるのを万二郎の力で阻止してほしいという要求だったのだ。
無理難題ではあるが、父・住職の「そのお礼に娘せきをあなたに差し上げます」という一言に万二郎は怒り席を立つ。
ここでも万二郎は一本気ゆえにうまく事を運べなかった。
その後万二郎は勝海舟に会い「堀田様になにかあれば俺たちにも降りかかる。気をつけろ」と忠告される。
万二郎は自分がまったく情報網を持っていないことを知りこれからはヒュースケンから情報を集めようと決心する。
ところがそう決意した途端、万二郎はアメリカ人の護衛を降ろされてしまうのだ。
実は堀田正睦の政敵である井伊直弼の大老就任ですべてが変わってしまったのだ。万二郎は何もかも知らないでいた。
井伊直弼は慶喜ではなくまだ十三歳の慶福を将軍にして世の中を牛耳ろうと画策していた。
なにもできない万二郎は酔って誤魔化していたが山岡鉄舟にどやされ目が覚める。
安政五年五月七日将軍家定危篤状態となる。
ここでちょっと奇妙な展開が起きる。
伊東玄朴が突如長年の念願だった奥医師に任じられ登城することになったのだ。
この時良庵から「種痘所設立趣意書」の提出を頼まれ「いきなりは無理だろう」と渋々受け取る。
ところが井伊直弼から直々に「わしの早とちりであった。なかったことにしてもらいたい」と言われてしまうのだ。
伊東玄朴は涙ながらに「あまりといえばひどいなされようではございませんか」と訴える。さすがの井伊も困り「どうせよというのじゃ」となりここで伊東玄朴は預かってきた「種痘所設立趣意書」を差し出した。
結果、伊東玄朴は奥医師にはなれなかったが種痘所設立の約束を取り付けたのである。
手塚良仙の喜びはすさまじく泣いて感謝した。
種痘所は江戸でもついに始まったのだ。
(現在でも「お玉ケ池種痘所」の碑がひっそりと建っている、と書かれている)
種痘所はそののち医学所と名を変え明治に入ってからは本郷のもと加賀公前田邸あとへ移り東京医学校となり東京大学医学部となる(らしい)
さてここから六巻表題でもある「コロリ」の話になる。
夜鷹のお紺は江戸に来てから金を貯め今では品川にちょっとした店を構えそこの女将となっていた。
良庵を歓迎しもてなすのだった。
ところがここで黒船が「コロリ」を日本へ上陸させてしまう。
コレラである。
船員が上海で感染し日本近海で発症したのだ。
長崎に寄港し上陸した船員たちからまたたくまにコレラは広まっていった。
長崎五万人の人口のうち七千人が死んだという。
六月になってコレラ患者は博多から九州東部へ飛び火しさらに海峡を越えた。見ているうちに三日ほどで死んでいくために「コロリ」と名付けられた。
耳ざといお紺はコロリの話を聞きつけ怖れた。
良庵は箱根からこっちへは来ないと笑ったが長崎から関西を経て東上したコロリはあっというまに江戸を襲う。
そしてお紺はコロリにかかってしまった。
良庵宅もまた患者でいっぱいだったがお紺の話を聞いた良庵はすぐに駆け付ける。緒方洪庵の医書による処方を始めるがそれ以上はどうしようもなかった。
良庵がお紺に付き添っている間に良庵の母親も感染してしまう。女房のおつねは良庵をさがしたが見つからないままおっかさんは弱っていった。
お紺の病状が収まり家に戻った時はすでには母は虫の息で何の手立てもできなかった。
家族に看取られながら母は死んだ。
しかしコロリが終わったわけではない。
良仙は息子を急き立て患者のもとへ戻る。
が、苦しみながら死んでいく人々を前にどうしようもなかった。
二万八千四百二十一人。これが記録に残った江戸市中のコレラによる死者数である。
一説には二十万以上が死んだとも言われている。
そしてその中にはあの安藤広重もいた。
享年六十二歳。
七月二日蘭方医を憎みきった多紀誠斉コロリにて死す。
翌三日、再び急便が伊東玄朴の家へ。
さすがに簡単には腰を上げなかった伊東だが同時に蘭方禁止令が解除されたとわかり登城した。
しかし将軍家定を診察した時はすでに手遅れだった。
翌日将軍家定は死去した。