ガエル記

散策

『ウィンド・リバー』テイラー・シェリダン

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昨日観た『ジェフリー・ダーマー』のジェレミー・レナーに惚れ込んでしまっての本作です。いやジェフリーが本作主人公になるとは思えませんが、あの映画もまた本作も自分の思い通りにはならない人生の過酷さを見つめた作品であると思えます。

 

この映画は単なるネイティブアメリカンだけの問題として描いたものではないと感じます。この映画を観れば多くの人がこれは自分と周囲にある問題を可視化した作品なのだと思えるでしょう。

もちろんアメリカにもともと住んでいた人々が後々入り込んできた別種族たちのために過酷な場所へと追い込まれていった歴史はわずかながら知っていてその惨い事実からも目を背けるわけにはいかないでしょう。

無学な私でさえも彼らが健康に有害な場所、貧しい土地に住居を認められ意志があってもその環境から抜け出すことが困難であることは聞いています。

そして本作での厳寒の地に住むネイティブアメリカンの状況はすさまじい。

その女性を妻にした白人男コリー・ランバートが本作の主人公となる。

彼を見ているとかつて愛読した小説『モヒカン族の最後』の白人男・ホークアイを思い出してしまいます。

(ところで彼はヒーロー映画でホークアイという役をやっているそうですね。観てないのですが偶然なのか必然か)

ホークアイという白人男もモヒカン族を愛し自然を畏敬する銃の名手でしたが、このコリーもまた同じです。

ホークアイモヒカン族の親子を家族のように愛していましたが彼もまた同じです。

 

モヒカン族の最後』では勇敢で美男であるアンカスという青年が悲劇の戦士として描かれましたが本作では若く美しい女性の悲劇をしてコリーは彼女を戦士と呼びました。

 

さてしかし本作は『モヒカン族の最後』ではありません。

彼らは現実に現在そこに生きていく人々です。単なる悲劇として堪能すべき物語ではないのです。

 

上流市民ではないのは彼等だけではなく、彼らの苦しみは我がことに置き換えられはしませんか。どんなにあがいても上に行くことは望めるわけもないのは私たちも同じです。

努力が足りない、勉強が足りない、本当にそれだけなのかという恨みそねみを持ってしまうのが私たちです。

本作では出世できるはずだった若者が結局「ヤクの売人になりさがる」という事実が突き付けられます。

ゲームにはまり込み廃人になってしまう一歩手前にいる若者たちはなぜそうなってしまうのでしょうか。

過酷な土地、抑圧された状況で女は常に男たちのうっぷん晴らしの的にされてしまいます。

男の部屋に行った女が悪い、はい、いつもあなたはその論理です。

 

厳寒の雪の中を素足で10キロ走った彼女をコリーは戦士と呼びました。

私はそのことに賛同します。

彼女を襲った男を同じ目に合わせるという罰を下したコリーに賛同します。

 

彼女はネイティブアメリカンでその国において差別される運命にある女性ですが、私が住む日本という国で同じ日本人であっても同じ運命が待っています。それがこの国です。

もちろん他国人に対しても同じです。

今日本社会は怖ろしいほどの抑圧の下にあり、人々の心は荒み切っています。この映画の核となる事件のように若い女性たちがそのはけ口となるかのように性暴力を受けています。

この映画の世界も私たちが住む場所も同じなのです。

 

では私たちのそばにコリー・ランバートはいてくれるでしょうか。

そんな夢のような期待を抱いてはいけないでしょう。

私たちそれぞれがコリー・ランバートにならなければいけません。

では私たちは雪の上を走った彼女になれるでしょうか。

通常の人間なら走れないほどの距離を彼女は走りました。では私たちは?

 

この世界を走りぬけることはできるのでしょうか?