昨日に引き続き熊井啓作品を鑑賞しました。なんとなく気になって(先日『利休』を観たのもあって)後で熊井啓監督作品だった、と気づくといういつものヤツ。熊井監督は昨日の『海と毒薬』もですが映像が美しくその世界の中に入っていきたいと思わせる情感が豊かで内容が深刻なのにそれを苦痛にさせない居心地の良さがあります。
『海と毒薬』では制作秘話に凹んでしまって氏の映画から遠ざかりたいと思っていたのですがうっかり観てしまいその出来栄えに再び心酔してしまいました。
本作『千利休 本覺坊遺文』を観ていて物凄いデジャビュを覚えてしまったのはジャン・ジャック・アノ―監督映画『薔薇の名前』でした。
素晴らしい知性を持つ師匠に弟子が導かれていく、という筋立てにおいて、ではありますが、作品の重く湿った情感と同じように知性の世界に入り込む男性たちと権力者の登場といった図式に共鳴するものを感じます。
本作が千利休の切腹に至った謎を解く物語になっているように『薔薇の名前』では僧院で起きた僧侶の死の謎を解く物語になっています。
奇妙にも『薔薇の名前』で僧侶たちが大声で笑うのを叱責する場面があり「ここでは笑うことは禁じられている」「人間にとって笑いは悪」と説かれるのですが、本作で茶室で大笑いする茶人たちを本覺坊が怪訝な目で見る、という場面があります。
「笑う」というのは良いことでもあるのですが、時に邪心を感じるものでもあります。
本作を観ていて思ったのは「利休の茶」というのは「宗教」だったのだな、ということでした。
もちろん利休自身仏門に帰依しているのですが、「茶」自体が宗教だったのではないでしょうか。
日本人には宗教がない、とよく言いますが実際には仏教神道などがあるのに変ですが、宗教心が少ないということや宗教を追求しようという人があまりいないということなのかもしれません。
それに引き換え「茶道」「華道」さらには様々な趣味に関しては没頭し極めようとしていく志向があるように思えます。
それこそが文化となっていくのですがそこに権力者が入り込み文化を政治につなげようとする時に趣味人=文化人=知識人はどういう態度をとるべきでしょうか。
「無」ではなくならない「死」でなくなる。
現在でもそうした苦悩はさまざまに見受けられると思うのです。
秀吉=権力者は自己の思い通りにならない文化・宗教・趣味・知識を目の前にして憤り自分の思い通りにしろと激高し知識の人を死に追いやります。
ここで何故謙虚に教えを請おうとしなかったのか。
権力者という者はそういう者なのです。
あまりにも心動かされる映画でありました。
もう一度観てみます。
おっと、もう少し。
昨日に引き続き悩める男を演じる奥田英二がよかったです。
熊井啓監督は奥田氏に苦悩する知性を感じているのですね。
今はもういない師匠を常に傍に感じながら思考を続ける本覺坊、ちょっと他にないほどの魅力を感じます。