原作小説の感想を書いた時「この映画に期待している」と本気で思っていたのに映画公開にも(どうせ行けないが)DVD化にもまったく気付かず偶然見つけた時はすでに旧作品になっていました。
ネタバレしますのでご注意を。
芥川賞受賞という華々しいデビュー作の原作ですが非常に短い割に難解だという評価とLGBTというレッテルを貼られた割には派手さがまったくなく東北大震災に触れているのに悲劇的でもないという原作はあまりもてはやされることはなかったように思えます。
芥川賞作品をほとんど読まない私は逆に手に取ってしまったのですが素晴らしいミステリーを描いた精緻な文章に惹かれました。
この作品を映画にする、映像にするのはミステリーという点において非常に困難であると思ったのですが逆にそれがかなえば名作になる予感がします。
映画化を知った時はそれを思って期待は高まりました。しかも主演が松田龍平と綾野剛ときては名作にならざるを得ない気がします。
しかし実際はそう簡単に夢を育んではくれませんでした。
大友啓史監督はこの類まれな作品を当たり前の映画にしてしまいました。いったいどうしてこのような結果になってしまったのでしょうか。
映画の中で(小説にはなかったと思いますが)「お前は表面だけを見ているんだよ。大切なのはその裏側。一番濃い影の部分だよ」という台詞があります。
まさしく大友監督にそのセリフを言いたい私です。
以前原作『影裏』に書いた私なりの謎解きですがこの作品の影は
「この主人公・今野が女性である」
ことだと考えています。
LGBTとして言えば
「今野は体は女性だが心は男性でしかも男性を愛する男性なのだ」
ということがこの作品の最も暗い影の部分なのです。
映画を観る時私は無論この点を注視していきました。
ところが綾野剛演じる今野は何度も裸になる場面があります。胸があらわになった時は「やはりこの監督は彼を女性と考えていないのだな」とがっかりしました。
少なくともタンクトップなどで隠して曖昧にすることはできたはずです。
しかしまあ整形したと考えることもできなくはありません。しかし映画が進むにつれてより「今野が心身ともに男でありそして同性愛者である」という描写が強まっていきました。
この映画、大友監督による『影裏』は次のような内容です。
今野秋一は内気でおとなしいゲイの男性。
転勤先の岩手県で知り合った日浅典博に恋をするがなかなか打ち明けきれずついキスを迫ってしまう。
日浅は今野を振り払うがその後も変わらず友人として付き合っていく。
が、日浅はいつの間にか冠婚葬祭のセールスマンに転勤していてある日今野に入会を頼むと姿を消してしまった。
今野は昔の恋人に再開する。男性だったその人は今は女性の姿になって生活しているのだ。ふたりはハグをして別れる。
今野は日浅を忘れきれない。
そんな中ある女性から日浅は大勢の人をだましていて大きな借金もしているのだと伝えられる。しかも日浅はもう死んでしまったのではないかというのだ。
今野は日浅の父親と兄に会い、それが真実であると確認する。
しかし日浅の父は「あいつは死んでなどいない」と今野に話す。
「あんな男は死なない」と。
この後の映像は本当に蛇足でした。
説明的な祭りの場面。そして今野が一人で釣りに行き木陰にいないはずの日浅の姿を見る。そしてかつての恋人が男性の姿で今野に寄り添う。
今野は美しい川に釣った魚を放しそれを見守る。
ゲイである今野がそれゆえに内気でやや女性的である、という解釈と描写になっていました。
同性愛を突き放したものの友人であることは厭わない日浅を恋い慕う、という解釈になり「俺たちは死骸の上に立っているんだ」という台詞は同性愛者と詐欺師の生産性のなさを弾劾しているように聞こえます。
成立しない二人の関係と大震災による世界の崩壊が重なりあわされているような解釈と感じました。
しかし原作『影裏』はそのような作品ではありません。
大友啓史監督は本気でこの小説をこのような内容だと考えたのでしょうか。
この小説のどこにそのような考えが書いてあったのか教えて欲しい。
沼田真佑『影裏』は次のような内容と私は考えます。
まずこの小説は一人称で書かれています。一人称は怖い文体です。つまり作者は事実をどのようにも隠し選択する部分だけを書けるからです。
とはいえすべてが虚偽であるなら小説として成り立たないので「書いていることは真実」として書くべきでしょう。
「書いていることは真実」といううえで、では「書いていない部分もあることも真実」というルールは認められるのが一人称だと私は思っています。
そこをどう表現していくかが一人称小説の醍醐味であると私は考えます。
今野秋一は「こんのしゅういち」という男名前ですがもしかしたら同じ漢字の違う読みかもしれません。日本語は非常にそのあたりが豊富です。
例えば「こんのあきひ」という名前なら女性名としても通用します。
しかも作品としてはほぼ「今野」のほうで進んでいきます。
一人称に選ばれた単語は「わたし」です。
「おれ」や「ぼく」を使用しなかったのはもちろん最初に挙げたルールを作者が守ったためです。
「わたし」だと女性と見破られそうですが文体が非常に硬く趣味が釣りであるのもあって男性的だと読者に思わせてしまいました。
今野は一人称で語っていきますが一度も自分が男性である証拠を記していません。
例えば「好きな人を思って射精した」とか「疲れると髭が伸びる」とかもっと端直に「ペニス」「のどぼとけ」「男なら・・・が当然」「男としては・・・」などの表現。ゲイであるとしても「男と男の触れ合いが」といった表現をほかの小説で今まで多く見てきましたがこの小説の中には今野が「俺は男だ」という主張をする言葉が一つもないのです。
鍵は妹からのメールです。普通なら「お兄ちゃんは・・・」という呼びかけをするものですがそれがありません。
決め手は元恋人とのやりとりです。
この映画では最後に新しい恋人が男性の姿で今野に「今度の週末両親に会って」というのです。
むろん実際の現在日本社会でもこのようなゲイカップルは存在するでしょうがあっさり言うにはやや不自然です。
小説では最後ではなく途中で今野が「あの時元カレの両親にあいさつに行ってたら結婚していたかもしれなかった」と回想することになっています。
さすがに現在日本社会で(というか少し前の時点なので)男性同士の場合何のためらいもなくそう思うことはないのではないでしょうか。
明らかに小説の今野はこの元恋人と付き合っていた時は「普通に女性」だったのです。
そして元恋人は性転換手術をする前の「普通に男性」で「普通に男女の恋人同士」だった二人は結婚手前まで行っていたのです。
しかし性転換手術をした元彼を前にして「男性が好きな男性の心」を持つ女性である今野は別離を決めて岩手県への転勤を人生の転機として喜ばしく思ったというわけです。
今夜続きを書きます。