続きます。
勝手な解釈をしています。とりあえずネタバレにはなると思います。
『影裏』主人公「わたし」=今野秋一が「両性具有」と書きましたが本音を言うと実は「女性」という可能性と迷っていて決め手がないのです。
とは言え昨日書いた日浅との再会での会話は未熟な男性性を持っている者への当てつけのように感じられるし「わたし」もそのことに引け目を感じているように思えるのですね。
流木やガラスの灯などが何かの喩えであるのかが判るといいのですが。
もちろん作者自身がそのことを明確しようとしていない、という事も考えられます。
日浅のことも「わたし」のことも和哉のことも謎であるのです。人は目の前に見えていることをそのまま常識で考えて判断していきます。
ですから常識として日浅も「わたし」も男性同士の仲の良い友人として見られているし、日浅はとんでもない詐欺ができるのでしょう。
物語の最終章で「わたし」が日浅の父親から日浅の正体を伝えられる場面は本作の中でもっとも現実的な描写として浮かんできます。
しかしここでも最初「わたし」は日浅の父親を背が高く逞しいと思っていたのが息子を見捨てた失望の会話の後帰る際には痩せた老人にすぎないと感じている。
目に見える印象は頼りないものなのです。
が、ここでその父親が漏らした言葉が「わたし」の希望ともなる。
東北大震災で行方不明となった日浅の捜索願を出していないことを「わたし」はなじるのですが父親は「あの馬鹿者のために人の手を煩わせる必要はない」と言った後「息子なら死んではいませんよ」と続けたのです。
「わたし」と日浅の父親との会話も短いものですが、この中でも様々なことが秘められています。
日浅の父親は息子・典博が詐欺師、つまり人を欺き続ける悪人、として「まっとうな生活者の方々と同じ(行方不明者の)リストにのぼせるなんてわたしは烏滸がましいことだと思いますがね」と言い放ちます。
この言葉はそのままLGBTの多くの人々、人の目を欺いてしか生きていけない人々、まっとうな生活者ではない人々への言葉になり得ます。
日浅の父は日浅だけでなく「わたし」も和哉もその他多くの自分を隠してかりそめの姿で生活するものを同じリストにのせるなど烏滸がましいと考えているのです。そしてまっとうな生活者らしく町会費を集める班長を担当して息子の「本物の合格通知」だけを自慢するのです。
「わたし」はそれからも生出川で釣りを続けます。「生出川(おいでがわ)」という名前にも行方不明となった日浅の帰還を感じさせます。こちらへ「おいで」であり「生きて出てくる」わけです。
行く手を阻む水楢は失くなり、バッタの幼生が飛び出してくる。
釣り上げた魚は、以前欲しくなかったと言った鮠ではなく虹鱒(ニジマス)でした。
本州以南の自然界では稀だという虹鱒。
虹はレインボーでありLGBTのシンボルであり、自然界に稀だという説明もそれを意味している。
もしかしたら誰かが放流したのか、上流に養魚施設か何かがあり、そこから逃げ出してきた個体かも、と「わたし」は考えます。
そして不意に濃い倦怠を感じながらも「わたし」は蜉蝣が無数に水面を上下する生出川沿いを上流に向かって歩き始めるのです。
なんという希望に満ちた終わりなのでしょうか。
上流に果たして日浅はいるのでしょうか。二人はもう一度再会するのでしょうか。
電光影裏斬春風
この言葉の意味を調べると「死は突然訪れるがその魂は永遠に生き続ける」と示されますが私はむしろ言葉そのままの意味を取りたいと思います。
「稲妻が春風を斬るようなもので、魂まで滅し尽くすことはできない」
和哉も日浅もそして「わたし」ももしかしたら読者たちも、人を欺いて生きていかねばならないかもしれません。
そうでないと生きていけないかもしれないのです。
それでも魂まで滅し尽くされてしまうことはないはずです。
「わたし」が男なのか、女なのか、はっきりさせてしまう必要はありません。
「わたし」は「わたし」であるだけです。
日浅もまたそうなのです。
詐欺を働く日浅に失望するどころか生きていくたくましさを感じる「わたし」は日浅が好きなのです。
それが友情なのか恋愛感情なのかも推し量る必要はないのです。
「わたし」はきっと日浅に出会うでしょう。
わたしはそう信じます。
儚い命と言われる蜉蝣を見ながら「わたし」は上流へと向かいます。
倦怠を感じながらも何かを探しに。
しかし虹鱒を釣ったのですから、絶対に希望を感じさせます。