ガエル記

散策

沼田真佑著『影裏』を読み解いていきます。その5

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コールマン灯、こんな感じなのでしょうか。

続きます。

 

以下、ネタバレというか自分流解釈をしています。

昨日の解釈から変化しています。

 

 

『影裏』の一人称主人公「わたし」今野秋一は両性具有であり、以前は女性として生活してきました。

名前は男性のように読めてしまいますがたぶん「あきひ」のような女性名だったのです。

東京でのかつての恋人は男性である副島和哉でした。

しかし「わたし」は自分が女性として生きるのに疑問を持ち始め、逆に和哉は男性である肉体に疑問を持ち始めたのではないでしょうか。和哉が家族と疎遠だったのはその性志向を嫌われてしまったためでしょう。

 

ふたりの交際を家族に打ち明けていれば結婚したかもしれないと思うほどだったのですが、ふたりは自分たちの複雑な性に苦悩していました。

和哉は後に女性へと性転換手術を受けます。

「わたし」は男性になりたいと思っているわけですからある意味ふたりは男女を逆転するだけで夫婦となれたかもしれないのですが、「わたし」はもうひとつの「LGBT」がありました。

「わたし」は男性になって男性を愛したい、という人格だったのです。

つまり和哉が女性となってしまえば「わたし」はもう和哉を「性の相手」として感じられないのです。

 

仕事上のトラブルで岩手へ出向するように告げられたことはいわゆる左遷であったかもしれませんが「わたし」にはそれが新しく人生をやり直すきっかけとなったのです。

手術をしたなどの記述はありませんが大きな手術であれば時間を要してしまうので「わたし」はそういったことはなく「男装」をしているだけで男性になれてしまっているのかもしれません。

 

新天地で知り合った同僚男性・日浅典博は型にはまらない自由人で野性的な風貌で大雑把な性格も男らしさを感じさせます。

「わたし」にとって日浅は同世代の気の合う釣り仲間であり、性的魅力を持つ男性だったのです。

 

さて日浅は「わたし」今野秋一の正体を知っていたのでしょうか。

小説には明確にその記述がないのですが、微妙な筆致で作者は描いているように思えます。

なぜ明確にしないのかと言えば、それを書いてしまうと「わたし」の謎が簡単に明るみに出てしまうからで、作者はもちろん「わたし」の謎を簡単に暴露してしまうつもりがないからでしょう。

この作品が90ページほどと短いのも長く書くほど謎を秘めながら不自然にならないように表現していくのが困難だからです。

たぶん多くの読者が「わたし」はあたりまえに男性だと思って読んでいるようです。そして「何も起こらない日常だけを描いた小説」と不満を持っているようですが、あなたの前にいた人は複雑なキャラクターであり、すべてが謎でありひとつひとつに影があり、裏があるのです。

 

ではその日浅が「わたし」の謎を知っていたかを分析していきましょう。

それは本書42ページからの数ページです。

ここも「わたし」が帰宅してに氷を落としたバーボンをマグカップで飲みながら日浅との出来事を思い出す、という場面になっています。

 

日浅はゲイだったのではないでしょうか。

男性になり男性と同性愛関係になりたいと願う「わたし」にとって日浅はこれ以上ないほど理想の男だったはずです。

日浅も友情を持ちながら同性愛関係を持てる「わたし」に期待したはずです。

ところが服を脱いでしまうと「わたし」の体は男性としては未熟で日浅はそのことをからかったのではないでしょうか。

 

 本書42ページ。「わたし」は久々の日浅との再会を思い出しています。

夕暮れから川原で釣りをし、焚火をして魚を焼き酒を飲む、というたぶん二人が何度もやってきたことを再会時にも繰り返したのです。

 

最初から、おたがい変に緊張していた。コールマン灯にありあり映し出されたテーブルセットに目をとめるや、「なんだよママゴトかよ」と唇をゆがめて日浅は嘲った。

 

ここは二人が性交渉を行おうとしている場面ではないかと思います。

あらかじめ「わたし」は自分の体の事を伝えていたのですが、日浅はそれを「かまわない」といったくせに実際に見てしまうと「ママゴトかよ」と嘲笑ったわけです。コールマン灯にうありあり映し出されたのは「わたし」の体です。

私にはわからないのですが

 

今度は車の駐車位置について日浅がどうこういいだしたときで、さすがに尖った声が出た。後輪がわずかに畑にはみだしているから今すぐどかせとせっつくのである。

 

よくわからないけど何かを暗喩しているようです。とにかくこんな風に日浅と「わたし」は苛立った前戯をしていたようですが、

 

ただ釣りそのものは爽快と言えた。(略)闇の中で振る十メートルもの長竿は冷気を裂いてびゅんと威勢よく鳴った。大物が一度に三匹掛かったときには夜目にもわかる撓りを見せた。(略)乱暴な釣りなのだ。

 

ここはもう暗喩ではなく直接的な表現になっていますが、なにしろ釣りの表現なのでセックスを意味しているといえば笑われてしまう恐れがありますが、二人が釣り好きであるという事も含めゲイセックスを表していると思います。

 

次に日浅は流木を燃やす、という行為をします。

 

「ガラスみたいな火だな」

わたしがいうと、二つの椅子が同時に軋んだ。テーブルに片肘をついたら呼応するように日浅も腕をのせてきた。

 

この部分もセックスを意味しています。

 

「薪でいちばん優秀なのは流木なんだぜ」

この種の話題に流れると、日浅はがぜん魅力を増す。

 

流木とはなんでしょうか。

そして今まで苛立っていた「わたし」がその話をする日浅に「がぜん魅力を増す」と感じているのです。そして苛立ちがおさまり

 

わたしの気持ちもいくらかほぐれた。

 

とまで書いています。

しかしその後すぐ

 

しかしこの夜の日浅は陰鬱だった。全体に攻撃的でぴりぴりしていた。流木の美質を語るのに、二、三のどぎつい比較を持ち出した。わたしに対し明確にそれだとわかる当てつけを言った。

 

となってしまいます。

たぶん「わたし」の男性器の未熟さを日浅は流木になぞらえて皮肉った、馬鹿にしたのです。

いきなり「わたし」は

 

この時期の鮎は何といっても卵を食うのが醍醐味なので、特に雌ばかりをえらんで

 

という行為をします。

そして日浅に勧められる酒を断るのです。

 

「おい、シリアスになるなよ」当惑を隠そうともせず日浅はうなった。

 

しかし田酒といううまい酒らしいものをさらに「わたし」はことわり二人の関係は険悪になってしまいます。

 

 その後、井上さんという年配の男が来たことで場の空気はやや和み、というのか誤魔化され「わたし」は訛りがきついために半分しかわからない井上さんの話を聞いていたのでした。

 

以上が日浅が「わたし」の秘密を知っていて、そればかりかゲイセックスを何度も行ってきていた、と思われる記述です。

今どき、このような秘めた暗喩でゲイセックスを書かなければいけないことはないのですが、作者はあえて表に出さない手法で小説を書けるか、という挑戦をしたのだと思います。

もちろん作者の思いはそれだけではないのでしょう。

まだまだこの小説に隠された謎はあるのです。

むしろその方が大きいものなのかもしれません。

 

そしてまだ小さな秘密もありそうです。

 

それはまた次回書いていきたいと思います。

 

ここでひとつ思ったことですが、『ブロークバックマウンテン』という優れた小説及び映画がありますが、この作品で二人の男たちがゲイセックスの関係を長く続けていくための言い訳として家族には「友人と釣りに行くから」としていたことがあります。

 

ヒース・レジャー演じるイニスの妻は夫がいつも持っていっていた釣り道具が一度も使われていなかったことを見つけて男同士の関係に気づくわけですが、本書では釣りそのものが同性愛関係をイメージするものになっているのはちょっと面白いことです。