ガエル記

散策

『悪魔がみている』ロモーラ・ガライ

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原題は『AMULET』監督・脚本はロモーラ・ガライ

記憶していない名前だったので検索してみたら凄い美女が出てきて驚きしかも俳優だったので???となったのですが単純に美人女優さんが本作の脚本・監督になったという経緯でした。

この記述自体が本作とも関係すると言えます。

 

昨今女性クリエイターの作品はますます増えてきています。小説・マンガ・画家・作曲家などの個人的創作はかなり前から多かったものの映画監督となるとやはり巨額の資本が必要となりまた多くの男女を統括していく立場になるためかその数は一人で行える分野と比較すると極端に少なくなってしまいます。

日本においてその傾向は顕著と言えます。日本では私はまだ好きな女性映画監督の名前が挙げられません。とはいえ小説やマンガ分野では男性以上に優れた才能が多いのですからいつかは、と思ってはいます。

 

さて女性映画監督、と冠がつくとまだまだ二言目には「女性ならでは」という表現がどうしてもついてしまうのですがでは「女性ならでは」という作品とはいったいどんなものでしょうか。皆さんはどう思われますか。

私は「女性復讐作品」と呼んでいたのですが昨今それは「フェミニズム作品」と呼ばれているようだと気づきました。

私の造語である「女性復讐作品」というのは「今まで当たり前に作られてきた多くの映画・小説・マンガなどの作品は男性が男性に向けて男性が好むものばかりだった。反省や苦悩を促すものであってもそれは男性が耐えうる範囲にかぎっていた。女性から見れば違和感があってもそれは〝考えが足りないからだ”と一蹴される」(日本においてはマンガは少女マンガという特別なカテゴリがあるのだがそれでも編集者は男性だというフックが付く)という過去の重なる恨みから「女性が作るのであれば今まで男性が好んで作ってきたものを裏返して表現したい。男性作品で虐げられてきた女性の役を男性が体験してみるが良い」という理念のもとで作られた作品だと私は思ってきました。

それはそのまま「フェミニズム作品」と呼ばれるものに共通しているようでもあります。もちろんそういう考えは「ほんとうのフェミニズム」などではないと私は考えますが一般にそうした女性性の復讐劇がフェミニズムものと称されているように思えます。

 

私はそうした「女性復讐作品」が嫌ではあるのですがこれまでのセオリーとは違う方向へ進むので観てしまうところはあります。そして途中で気づくわけです。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

本作はまさにそうした「女性復讐作品」でありました。

レビューを見ると賛否分かれていて「わけがわからなく退屈」という意見も散見できるのですがもしかしたら男性の場合が多いのではないでしょうか。

物語の理由付けも女性が受けてしまう因果でありました。

妊娠出産という現象はなぜかいつもホラーと結びつきます。

それはなぜなのでしょうか。

美しいほっそりとした女性が醜い異様な体形となりやつれ嘔吐を繰り返し出産で死ぬ危険もあります。その出産は非常な苦痛を伴い体液にまみれて体内から生命を排出するというおぞましい出来事だからでしょうか。

なぜ妊娠出産という本来ならば最も幸福な出来事、と言えるものが忌むべきものとされ不浄とされてきたのでしょうか。この感覚は西洋東洋問わず隠すべきこと、とされてきた過去があるのではないでしょうか。

ホラー映画で妊娠出産が繰り返し「おぞましい現象」のモチーフとして扱われているのはそうした過去への復讐と思えるのです。

その復讐のために本作の男性は出産という罰をくだされるのです。

 

しかし、と私は考えます。

 

フェミニズム映画が「女性復讐作品」にならないためには男性に体罰を下すよりもフェミニストになることがどんなに幸福になれることかを示す方向性がいいのではないか、と。

いつかほんとうに男性が出産できる日がくるのかもしれません。

それが恐ろしい苦痛を味わえという復讐ではなく幸福であったほうがいいのではないでしょうか。

「女性復讐作品」ではない「フェミニズム作品」が認識される日はいつでしょうか。

でも当分女性復讐劇は続くかもしれませんね。