ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第四十一巻 その2-関羽と陸遜ー

辛い道を歩まねばなりません。

やっと関羽と再会(私が)できたのにこの再会は・・・

 

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

呂蒙孫権に仮病だったと告げ自分の代わりに陸遜を陸口の司令官に任じて欲しいと願い出る。

策略を聞いた孫権はその推薦を受け入れ陸遜を任命した。

 

関羽の元に新任の陸口司令官の使いが訪れ礼物と手紙を渡す。新しい司令官の名前は陸遜将軍と伝えられたが関羽関平もその名を聞いたことはなかった。手紙は極めてへりくだった言葉でつづられていた。

関羽は呉にとって重要な場所である陸口に聞いたこともない無名の司令官が任じられその使者もおどおどしていたことで侮る気持ちとなった。

また間諜によって陸口では昼間から酒と女に溺れていて軍の規律など滅茶苦茶であると聞き笑い出してしまう。

よしそれならあれだけの兵を備えておく必要はないと考えこれからは樊城の総攻撃をかけるため兵をこちらに集結させることにしたのだ。

この報は呉に届いた。

孫権は時機到来と呂蒙を総大将にして荊州を奪えと命じた。

 

まずは烽火台のシステムを壊すことから始めた。

商船にばけた偽装船団を風浪の荒ぶる夜を選んで最初の烽火台のある対岸へつけた。暴風雨のため避難した商人と偽り烽火台で働く役人に助けを求めるふりをしてお礼にと酒とご馳走を運んだ。

役人たちがほろ酔い加減になったところで呂蒙が登場し「命が惜しくば次の烽火台の番兵を口説いて味方にしろ」と脅した。

そしてまた次の烽火台へと移動し呂蒙軍は一度も烽火をあげることなく呉軍を荊州に入れてしまったのである。

最後に呂蒙荊州城の城門を開けさせてしまう。烽火台の仲間が声をかけたことであっけなく城門は開かれてしまったのだ。

呉軍はなだれの如く荊州城に襲い掛かった。八方に放火したため混乱のるつぼと化しあっという間に落城したのだ。

関羽も予期できぬ荊州本城の落城であった。

 

荊州城に入城した呂蒙はまず不安におののく人心の安定をはかった・

布令の札に「殺人・盗み・流言を放つものは断罪に処す」とした。が、住民は疑念を持った。

呂蒙が町を視察していると雨が降り出した。そこへひとりの呉兵が百姓の笠をかざして走っていくのが見えた。呂蒙はその兵を呼び止め「その傘は百姓から盗んだものだな」と言いその兵の首をはねた。

荊州の人々はなんと公平な裁きだろうと安心した。

 

呂蒙陸遜は顔を合わせ荊州落城を喜び合った。

だが、と呂蒙は言う。公安地方にはまだ傅士仁があり南郡には糜芳 がいる。これを討たねば荊州全土を手に入れたとはいえぬ。

それを聞いていた虞翻は「傅士仁とは幼少からの友人であり自分が利害を説けば城を開くでしょう」と進言した。

虞翻傅士仁の城へ出向き「荊州城を守っていた潘濬も捕らわれていた魏の于禁も罪を許されて呉に仕えた(なんですとー)呉に忠誠を誓うならば今まで通り公安の守将たることを許す」という手紙を渡す。さらに口説かれ「親友のおまえを死なせたくない」と言われて傅士仁は開城した。

傅士仁孫権に会い糜芳口説き落とすよう命じられる。

糜芳は玄徳の昔からのよしみで傅士仁には難題だったが虞翻から入れ知恵され援護をするという約束で糜芳に会った。

傅士仁が呉に降ったことを話しこうなっては孫権に従おうと言い出すだけではさすがに糜芳から同意が得られるわけがなかった。

関羽将軍から「至急十万五区の食糧を調達せねば打ち首にする」という使者が訪れる。傅士仁はいきなりこの使者を斬りすてた。驚く糜芳傅士仁は「これは関羽将軍が荊州が落ちたのは我らのせいだと漢中王に報告して責任を逃れるためだ」と説明した。

そこへ「呉の大軍が押し寄せて参りました」との報告が。

大軍を見ておののく糜芳傅士仁は「これではもう食糧を調達することもできない。考える余地はございますまい」と念押しする。

糜芳は「わかった。呉に降ろう」と開門した。

 

曹操に「呉は荊州を落とした」の報が入った。

使者は曹操に「約束通り関羽討伐」を求める。

曹操は自ら大軍を率いて再び出陣した。

 

徐晃将軍はすぐに樊城に赴き関羽と一戦せよとの命を受ける。

徐晃はまず関平のいる城へ部下に大将旗を持って正面から攻めさせ自らはその背後から襲う、と計画した。

魏軍到来に関平は迎え撃つ。

関平の攻撃はことごとく裏目に出てしまった。城を奪われ焦った関平は夜襲をかけるがここでも徐晃の罠にかかり関平関羽の陣まで逃走するより仕方なかった。

 

しかもこの中で関平は「荊州城落城」の噂を耳にする。

怒り打ち消したが関羽にこの噂を問わずにいられない。

関羽関平からこれを聞くや

陸遜はまだ若く関羽を恐れている。下手に動こうとも烽火台の備えもある。荊州の守りは万全じゃ。

 

ああ、呉の攻撃は完全にここで関羽を捕えていた。

関羽はもしやという予測さえ持てなかったのだ。

この時関羽関平親子が予測できていれば、と考えずにはいられない。

 

魏軍は徐晃率いる先鋒隊に曹操率いる大軍が加わり山野を埋め尽くさんばかりとなって関羽の陣に迫ってきたのである。

 

魏軍到来に関羽は自ら迎え撃った。

関羽は腕の傷も癒え変わらぬ活躍を見せた。

が樊城の兵が突如城門を開いて打って出た。手薄になった関羽の包囲陣は苦も無く突破され蘘江の上流へ向かって敗走しだした。

勢いに乗った魏の大軍は夜になっても追撃をやめず関羽軍はずたずたに分断され骸をさらした。

関羽はかろうじて襄陽に入った。その勢力は半減していた。

 

そこで関羽は噂が事実だと知る。

荊州城は孫権の手に落ち公安の傅士仁南郡の糜芳も呉に降ったのだ。

 

関羽にとってこれ以上辛いことはない。


関羽馬良と伊籍に成都へ援軍を求めに行かせた。

 

さて魏軍の曹仁関羽追撃を考えたがこれを制した者がいた。

「ここで関羽を追撃すれば窮鼠猫を噛むの例え通りとなります。このままにしておけば関羽荊州を奪い返すことを考えるでしょう」

「そうか。何もしない方が孫権には大きな脅威となるということか」

 

曹操はこの度の第一級の勲功は徐晃であるとして平南将軍に封じ襄陽を守らせた。

 

関羽馬良と伊籍の連絡を待ち荊州街道に野営していたがそこは大雨となればたちまち沼に変わる地形であった。

ここで部下は関羽に進言した。

「かつて呂蒙が陸口にいた時同盟を組んで曹操を征伐しようと言っておりました。それが今や曹操に味方し我らを攻めるとは信義に背く仕業にございます。これは呂蒙に問いただせばまだ同盟の気があるやもしれませぬ」

関羽は使者を送った。

呂蒙はこの使者を丁重にもてなした。

関羽軍の使者が来訪されると領民たちに知らせた。

呂蒙は自ら出迎えるとその様子に気づいた領民たちが集まってきた。関羽軍には領民の子や夫が参加しているのだ。皆家族の消息を知りたいと使者にすがった。

呂蒙は優しく領民たちに語りかけ帰りに手紙をことづけるがよかろうと言い添えた。

 

だが関羽からの手紙にはきっぱりと返事した。かつてよしみを結んだのは私事であり今度のことは君命。君命に私情ははさめぬ」

頭を下げて気持ちを訴えたのである。

使者は酒でもてなされ黄金や絹の贈り物をもらって帰途につく。

使者は領民たちから家族への手紙を渡され「呂蒙様のご仁政で安心して暮らしていると伝えてくだされ」と聞かされたのである。

 

関羽の陣についた使者はその手紙を兵士たちに渡した。読んだ兵士たちは荊州城を奪った呂蒙という呉の将軍が情け深い方なのだと噂し合った。

 

そして関羽も使者から呂蒙の返事を聞いた。

「これは私事ではなく国家の命令だ。自分の本心ではないというばかりです」

 

関羽はここでやっとすべてが呂蒙の策略だったと気づく。

智勇の将と自負していた関羽だが呂蒙はその上を行っていたのだ。

呂蒙は人の心を操っていた。

「そこまでこの関羽は読み切れなんだ恐るべき人物じゃ」

がさらに関羽の予測を超える事態が出現した。

兵の半数が昨夜のうちに脱走したのだ。

だが荊州は我が領土残りの兵だけでも奪い返す、と関羽は出撃を命じた。

関平は「成都からの援軍を待たれては」と制しようとしたが

関羽は聞かなかった。

だが呂蒙関羽の行動を読み取り三人の将軍に三方からの出陣を命じた。

 

関羽は玄徳の信頼を裏切る結果となったことに焦りを感じていた。

が兵士たちは家族の住む荊州への進撃に戦意を失っていたのだ。

 

ここでも呂蒙の心の操作が生きている。兵士たちへはもちろんだが「君命を守る」という言葉に関羽は動いてしまったのだ。

しかし君命かなあ。私情のような気もするが。

 

そして確か孔明から困った時は曹操と戦って呉とは仲良く、って言われてなかったっけ。完全に忘れてる???

今更ながら関羽があの時呉と仲良くしていれば(娘を孫権の世子と結婚させていれば)と思ってしまうわなあ。ればは禁物だし結婚話はたやすくできないかもだけど、それこそ私情より君命というのならそうするべきだった・・・・

ああ歴史にたらればはないのだよな。