ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第三十六巻

す、すみません。誰かわからなくてどうしようかと思いながら本編を読んでいてかなり後で龐徳さんだったと思い出しました。馬超を助けていた忠義の豪傑ですね。いやあすみません。

 

うっ。関羽を見るとざわざわしてしまうのは何故なんだろう。若き日の曹操でも平気で見れるのに。神様を見てドキドキしてるのはおかしいと思う。それはたぶん横光のせい。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

呉の孫権は玄徳がすでに蜀を治めたにもかかわらず荊州を返すという約束を反故にしていると言って苛立っていた。いっそ大軍を差し向けてしまうかというところへ張昭は反論した。

玄徳の頼みとする人物は孔明ただ一人、その孔明の兄諸葛瑾は長く呉に仕えています。諸葛瑾を蜀へ使者として出し荊州を返さなければ諸葛瑾も妻子も斬罪に処すと伝えさせるのです。あくまで計略として見せかけるのですが。こうして孔明と玄徳を情と義理で攻めるのです。

こうして諸葛瑾が君命を受けて蜀の弟孔明に会いに行くことになった。

 

諸葛瑾を迎えた玄徳はいつもの如く孔明から対処法を伝授される。

翌日諸葛瑾孫権の書簡を玄徳に渡すと玄徳や読むなり「無礼なり孫権」と叫んで手紙をバリバリと破ってしまった。

驚く諸葛瑾の目前で玄徳は声を荒げ孫権が我が妻をあざむいて連れ戻した恨みをぶちまけ荊州を返せと言うなら武力で来いと突きつける。ここへ孔明が割って入り「この任務が失敗すれば兄は妻子ともども斬罪に処せられるとか」と言ってさめざめと涙を流す。玄徳は軍師の立場もある、荊州のうち長沙・零陵・桂陽の三郡だけ呉に返そう、と玄徳は使者諸葛瑾に言い渡した。

むろんすべて芝居である。これで孔明は兄より玄徳に情を持っていることがわかりましたね。

玄徳はこの件を手紙にし荊州にいる関羽のところへ行かれるが良い、と渡した。

 

諸葛瑾はすぐさま成都を去って荊州へと向かい関羽に会った。

関羽は手紙を読んだ。諸葛瑾は「そういうわけです。早速ご手配お願いいたします」

関羽きっぱりしすぎ~

関羽は玄徳はこの関羽荊州を与えておきながら今三郡を呉に返せ、とは何たる道理、と言うのである。

諸葛瑾は「しかしこれは君命でしょう」というのだが関羽は「将、外に在りては君命にも従わざることあり」と返す。

さらに「これは呉侯の人をたばかる策略じゃ。このわしが騙されると思うのか」というので諸葛瑾は「それはあまりなお言葉」としか言えない。

「黙れ帰れ」と言って「さもなくばここで斬る」と関羽が剣に手をかけるのを関平がとどめて「父上、ご使者は軍師の兄御です」「わかっている」といったうえで「さっさと帰れ」と追い出されてしまう。

再び蜀へ戻った諸葛瑾孔明には会えず玄徳からは「そういうことならこの玄徳が漢中の諸郡を攻め取って関羽に与えその時に荊州を呉にお返ししましょう」と言われすごすごと呉に引き返した。

 

このエピソードはどういうことなのだろう。

手紙は諸葛瑾も読めるのだろうから何か意味を含ませる言葉を先に決めておいたとか?諸葛瑾より先回りするのは無理だろうし?

そして諸葛瑾が受け取った返事に孫権は怒るがとりあえずはその三郡に役人を乗りこませた。しかしここでも役人たちはことごとく関羽に追い払われて逃げかえってきたのである。

孫権魯粛を呼び出しこの事態になったのはお前の責任だと問い詰める。魯粛は計略はありますと答え孫権に伝えたのである。

 

魯粛の計略は関羽を酒席に呼びそこで暗殺するというものだった。(これ単純すぎなんだけどそもそも関羽を暗殺できる人物がいると思えない???)(この人たぶんハニトラも効かないだろうし弱点がわからんのよ)(弱点って玄徳だけじゃ?)(玄徳を使って暗殺するしかない、意味わからん)

魯粛の酒宴招待を関羽は受ける。関平は心配するが

カッコいい顔なんじゃー。

関羽関平に早船十艘に兵五百をひそませよと命じ周倉に供を命じた。

 

ただ一艘の船で到着した関羽は酒宴の席に着いた。魯粛は「劉皇叔は蜀をとれば荊州を返すと約束されたのに履行されておられない」と言い出す。

しかし、と魯粛は譲らない。「信義に厚いという劉皇叔が呉の恩をお忘れか」

ここで周倉「黙れ天下の土地はただ徳のある者が保ちこれを政るのだ。おぬしら呉ばかりのものではない」と声をあげる。

これには呉の要人たちは「なんと」と義憤の声をあげた。

これが合図だった。周倉はすぐさま外へ出て沖へ向かって旗を振った。

 

酒席では関羽が立ち上がり「とんだ座興で申し訳ない。だが酒の席で軽々と国の大事を話すのはよろしくない。今日はこのまま引き上げて後日貴公を荊州にお招きいたそう」と告げ

関羽も策略家である。

魯粛がつかまれてるため刺客たちも手出しができず関羽の暗殺どころではない。

船に到着すると関羽魯粛を放し「魯粛殿お見送りご苦労」と船に乗り込んだ。

呉軍は慌てて矢を射たが関羽の早船はすでに遠く離れ笑い声だけが聞こえてきた。

 

さて次の話はかなり胸が塞ぐものなのでちょっと簡潔にしたいと思います。

許都において曹操の権力はますます強大となり朝廷の力は衰えていった。

献帝は伏皇后に苦悩を訴えていた。

伏皇后は父・伏完に手紙を書き忠臣穆順に託す。曹操を討ち取ってほしいと頼む手段に出たのだ。

しかし穆順の行動はすぐに曹操に知らされた。曹操は穆順が髪の中に伏完の返事を隠し持っているのを見破り首謀者は誰かと拷問にかけるが白状しない。

が、伏完の屋敷を強行捜査し伏皇后の手紙を見つけ出す。

曹操は伏皇后を捕えさせ殴り殺させた。曹操は自業自得と言って伏完・穆順の一族をことごとく町で打ち首にせよと命じた。二度と謀反を起こさぬ見せしめだ。

建安十九年十一月、二百十数名が殺された。

食を断ってしまった献帝曹操は「まだ利用価値がある。逆らう者に朝敵の汚名が着せられるからのう」と自分の娘を皇后として押し付け新しい生活を強要した。

 

こうしていっそう権力を巨大化した曹操は蜀攻略に進む。

やはりここでも玄徳を蜀から切り離したかった。

臣下らは「まず漢中を攻め滅ぼし勝ちに乗じて蜀に攻め入れば一気に攻め落とせましょう」と進言する。

西征の大軍が編成された。

夏侯淵張郃を先鋒に曹操自ら諸将を従えて中軍となり曹仁夏侯惇は後陣となった。

この知らせに漢中は騒然となる。

漢中第一の要害陽平関で魏の大軍を食い止めることに決定した。

 

ここで曹軍は出鼻をくじかれる。到着したばかりの先鋒が夜襲にあって大きな損害を受けてしまうのだ。続いて到着した曹操はこの不始末に怒るが側近のとりなしで二将軍は命をとりとめた。

しかしその曹操も漢中軍の陣を偵察中に襲われこの時も許褚によって救われる。

曹軍散々な初戦であった。