ガエル記

散策

『史記』第一巻 横山光輝

三国志』の後読もうと思っていてちょっと遠回りしましたがついに読み出します。わくわくしますなあ。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

「第一話 司馬遷

その『史記』の執筆者である司馬遷の物語です。

 

司馬遷の父。司馬談は一流の学者でありながら農耕で生計をたてなければならない状況にあった。しかしある時「太史公」に任命される。暦を作ったり国家の祭祀を取り締まる仕事である。いわば神官といえる。

司馬一家は茂陵という町に移住する。そこは長安から少し離れた場所で当時の武帝が自分の死後のための墓陵を造っている町であった。

司馬遷はこの時六歳。父・談を師として猛勉強をはじめ十歳で古文を暗誦した。そして新しい学問である儒学を身に着けるため董仲舒先生の門下生となった。董仲舒は天下の大学者であり皇帝の相談役でもある。

更に五経博士のもとで学ぶ。官僚の道が約束されるからだ。五経とは「易」「書」「詩」「礼」「春秋」のことで武帝儒学を発展させるため五経博士の官職を置いていた。

司馬遷は尊敬する父の言葉に従い董仲舒に学び孔安国博士に学んだ。司馬遷の少年時代は学問一筋であった。

 

二十歳になった司馬遷は父・談の勧めで旅に出た。父は「お前が身に着けた学問は文字だけの学問じゃ。それだけでは地方の風習や気質などその土地の匂いというものが伝わってこぬ。だが旅をして見ることは百の文字よりも本当の姿をなまなましくとらえることができる。太子公という仕事はそういうことも知っていたほうがよい」というのだった。

司馬遷は自ら望んでいたことでもあり二十歳にして中国大陸漫遊の旅に出た。

 

二年間の旅を終えて長安に戻った司馬遷は翌年郎中(侍従見習い)に任官した。身分は低かったが官僚として出世していく第一歩であった。

が、司馬遷は出世の機会に恵まれなかった。十余年を郎中のままで過ごした。これは異例のことであった。

前・111年。司馬遷は三十五歳になっていた。

その司馬遷についに大役が下った。宣撫と視察を兼ねて南越国雲南地方)へ行くことになったのだ。

漢王朝武帝の時代はもっとも繁栄した時代であった。漢王朝劉邦が楚の項羽を倒し紀元前202年に興した王朝である。それからすでに七代目であった。

劉邦の時代から代々の皇帝は匈奴に贈り物をしたり娘を嫁がせたりする親和政策をとっていたが武帝はこれに我慢がならず匈奴征伐を開始しゴビ砂漠の奥へ追い込んでしまった。このため匈奴は和平を求めてきたのである。

 

武帝は繁栄の中で封禅の儀式を行おうと考えた。

封禅の儀式について誰もが司馬談にどうのようなものかを訊ねた。司馬談は答えた。「この封禅の思想は春秋時代にできたものです。しかしこれを行ったのは始皇帝ひとり、しかも始皇帝はその方法を秘密にしたため誰も知りませぬ」

封禅とは天命を受けて天下の主となった天子がその山に登ると仙人になると言われる泰山の山頂に壇を築いて天を祭ることを「封」といいその麓の小山梁父の土地を平にして地を祭ることを「禅」といいます。

色々な珍しい動物を集めて天地の神への生贄としなければならないし準備は大変だと司馬談は説明した。

そして司馬談は封禅について猛勉強を始めた。

 

準備が整い封禅の儀式のため武帝は泰山へと向かった。

がこの大祭を成功させたいと願った司馬談は過労がたたり重病となってしまう。

西南から戻ってきた司馬遷は父の元へ駆けつけ最期の言葉を聞く。

「孝」についていろんな考え方があるが私は孝経の一節の孝をお前に求める。「名を後世に挙げてもって父母の名を顕す。これ孝の大なるものなり」

司馬一族は周の太史でいろいろな記録を残してきた。私もそれを真似て歴史を記している。周王朝のはじめ周公が先祖の功績をたたえたからこそ天下の人々が周公を褒めたたえるのじゃ。

この伝統は衰えたが、孔子が「春秋」を顕し復興した。

しかしその後明君・賢人・忠臣が出ているのに誰がその記録を残しているか。

司馬談は後世の人々に役立つと思い記録を書き続けたが完成できなかった。

この仕事を息子・司馬遷に引き継いでほしいと願う。

「偉大な仕事を残して司馬家の名を残してくれ。それが最大の孝であることを忘れるな」

 

司馬遷は有力者へ働きかけ太史公に任命された。

ここで司馬遷は新しい暦を作れと命じられる。後世にまで影響を及ぼす大変な事業である。秦は六の数を吉としたが新しい暦は五の数を吉とした。それまで冬十月を元旦としていたのを春正月を年の初めとすると定めた。

前104年この暦は完成する。陰暦である。この暦は清王朝が滅亡する1910年代まで二千年の間使用された。日本をはじめアジア諸国でも使用した。

(今も影響はありますね)

大事業を成し遂げた司馬遷はやっと歴史書作りに取り組んだ。

 

前99年、平穏無事であった司馬遷に突如不幸が訪れる。

和平を申し入れた匈奴単于が反逆行為を取ったのに怒った武帝匈奴討伐を命じた。この時出陣した李陵が最初は好戦したものの力尽き匈奴に降ったという報告がもたらされたのだ。怒った武帝司馬遷に李陵をどう思うかを問うた。

司馬遷は李陵の武勇を褒め援軍があれば敵を蹴散らしたであろうと説いた。

この言葉が武帝の怒りを買い司馬遷は獄へ送られてしまう。

獄中の生活は屈辱の日々であった。

しかも司馬遷は死刑を言い渡されてしまう。死刑を免れるには大金を払うか宮刑(腐刑)を受けるしかない。

司馬遷には大金を用意する力はなかった。死ぬのは恐れないが父の遺言に叛いてしまう。

司馬遷は「宮刑」を受ける決意をした。生きて父の遺言である歴史書を完成させようとしたのだ。

宮刑とは男根を切り取り宦官になることである。司馬遷はこの時四十八歳であった。

 

武帝は一時的な怒りで司馬遷を極刑に命じたことを気にかけていた。臣下に問いかけると新しい官職「中書令」という肩書で役目につけてはいかがでしょうかという答えに賛同した。

 

司馬遷は再び官職についた。それを受ければ宮廷の書簡を自由に見られるからである。

司馬遷はなにかに取り憑かれたかのように太史公書史記)を綴った。

極刑に対する憤りと残り少ない自分の人生のすべてを史記に賭けたのである。

才能ある人物があまりに世に受け入れられないことを嘆き天はなにもわかってくださらぬと憤りをこめて記した。

史記は完成した。歴代王朝から漢初まで百三十篇におさめられた。

 

司馬遷は正本は亡失を防ぐために名山に納め副本は娘に託した。

内容は武王の逆鱗に触れる箇所もあるゆえに武王存命中に一目に触れさせてはならないとした。目に留まれば一族に禍が及ぶ恐れがあるのだ。

そしてこの仕事を後世の聖人君子がどう評価してくれるかに賭けた。

 

屈辱の十数年であった。だがこれで思い残すことはない。司馬遷は父の遺言通りに歴史書を完成させ後世の評価を待つだけとしたのだ。

 

この第一話の壮絶さに丹念に書いてしまいました。

司馬遷の苦悩と痛みは想像に絶します。

しかしその中でしかこの仕事は果たせなかった。

そしてその仕事は今もなお語り継がれており永遠に続くのでしょう。

 

追記:第二話「名宰相・管冲」

第三話「驪姫の陰謀」

第四話「漂泊の覇者・文公」