ガエル記

散策

『 The Witch/魔女 』パク・フンジュン

f:id:gaerial:20210211053400j:plain

ヒロイン・ジュヤン役のキム・ダミの魅力が凄まじいです。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

前半の素朴な女子高校生の時も可愛くてこのまま話が進んでも楽しいくらいに良いのですが無論その純朴さは後半彼女が冷徹な魔女と変貌するための布石であるのは当然です。彼女も良いのですが友人役の女子も面白くて楽しかったです。映画を観てて噴き出してしまうのはめったにないのですが。

 

それにしてもいい加減同じことを言うのはやめたいのですが韓国映画の成長ぶりが恐ろしいですね。

仕方なくまた書きますが以前私がはまり込んで観ていた時期と今では作品の熟成度がまったく違います。

その頃は良い作品でもどこか別作品の『真似』的なものがあるのを感じてしまったのですが今はそんなレベルを脱してしまっています。

以前はエログロ場面が気になったものですが完全にそうしたものに頼る気質はなくなっているのです。

本作品は確かに暴力アクションものですがそこを執拗に見せようとしていないのです。

また現在日本と違うのは俳優の魅力です。

それは日本俳優が悪いというよりもそうした俳優のみを選択してしまう日本映画界の駄目さであると思うのですが本作キム・ダミのジュヤンを見せつけられるとますますその残念さを思い知らされてしまうのです。

 

まあそういう時期なのだと思うしかありません。

韓国映画がここまで進化してくれたことを感謝するしかありません。

とにかく面白いし心惹かれます。

日本映画の歴史をたどると大漁の時期もあれば不漁の時期もあるのです。

再び良い作品、魅力ある俳優が活躍できる時期が日本映画界にも訪れることを願うばかりです。

 

というような感慨をもたらしてしまうほど楽しく面白かったのが本作品でした。

f:id:gaerial:20210211064931j:plain

映像の美しさは以前からまったく変わらない。この色彩の質だけでも日本映画取り入れて欲しいです。

 

『便所の中の「星の王子さま」』寺山修司ー『ぼくが戦争に行くとき』より

f:id:gaerial:20210209065014j:plain

寺山修司の作った不思議な世界がとても好きです。とはいえ彼の作品の主体は演劇なのです。それはもうすでに観ることはかなわないのが残念です。

私ができたことはディスクに収められた映画を観たことと手に入る本を読んだ、ということになります。

そしてやっと今頃『ぼくが戦争に行くとき』を読むことができました。

 

読んだのは1969年に刊行された単行本を文庫化したものでありました。

つまりこの本には1960年代半ばの日本社会と日本人と寺山氏の考え思いが記されています。

 

その中で特に指が止まったのがほんの数ページ(というか2ページ半)の『便所の中の星の王子さま』でした。

安冨歩著『誰が星の王子さまを殺したのか』を読んでまだ間もなく私としてはここに書かれていた「モラル・ハラスメントの罠」という副題が示す通り「バラが王子に対して行ったモラハラ」そして「狐のセカンドハラスメント」という解析が頭ではなるほどと納得しても心からその解釈に心酔できないのはもともと私が『星の王子さま』を好きではなかったからじゃないかとも思っていました。

ところが寺山修司の2ページ半『便所の中の「星の王子さま」』(しかし寺山らしいタイトルですね)を読んで一気に世界が広がるような快感を得てしまったのですからやはり私は寺山世界が好きなのだなと思わずにはいられませんでした。

 

寺山修司は書きます。

「何百万の星のどれかに咲いている、たった一輪の花をながめるだけでしあわせだ」

というサン・テグジュペリの『幸福論』をあたためていたものであった。だが「見えないものを見る」という心的な力、星の王子さまの汎神論は、よくよくつきつめていくと「見えるものを見ない」というエゴイズムと、うらはらになっているのではないか、ということに思い当たる。『星の王子さま』は、ほんもののヒツジを見ようとせずに、箱の中にはいっているヒツジを想像しようとする子供である。

 

この文章は私の気持ちにあまりにもぴたりとあてはまるように思えました。

 

これは安冨歩氏の解析が寺山氏よりも劣ると言いたいものではありません。

理屈で言えば安冨氏の星の王子論は素晴らしいと思うのです。

しかし心の動きはやはり自分自身と深くつながるものなのです。

安冨氏の「星の王子さま論」もまたやはり本人の心理と重なったものであるのは氏本人も認めることであるでしょう。

氏の経験されたことを見聞きしていれば「星の王子さま」が安冨氏自身であり、バラから受けたモラハラが氏自身の体験から導き出されたのは間違いないのです。

つまり自分とまったく関係ない解釈ではない、ということになります。

それでいうのなら私は安冨氏ほどにはモラハラの苦悩を感じていないのでしょう。

そしてむしろ寺山修司の書いた解釈「おとなになった星の王子さま」の表現に深いため息をついてしまうのです。

「見えないものを見ることが本当に大切なことなのだ」

という言葉を信じそしてその言葉を崇めることは

「見えているもの(つまり目の前にある現実)は大切ではないと無視することなのだ」という相反性になるのです。

そして寺山修司は当時の社会がすっぱり両極端に分かれてしまっていることに疑問を呈しています(笑)(いつの時代も)

そしてさらに

要は両者の葛藤であり、あらゆる思想は、ドラマツルギーであるということを知ることである。

と続けます。

その通りです。

 

見えないものを求め愛する気持ちと見えるものー仕事・家庭の中で働かなくてはならない義務・責任のどちらかだけをとるわけにはいかないし両方のバランスをうまく保ちながら生活することが大切なのだと思います。

いわば「星の王子さま」は「見えないもの」ばかりに気を取られ「見えるもの」に気づかなかった、あるいは見ようとしなかったことが彼の死に結びついたように思えます。

私は夢見がちな少女でありながら夢ばかり追うことには拒否感があったようです。

例えば『かもめのジョナサン』も夢を追い続けることへの憧れを謳った小説で当時爆発的なヒットを飛ばしましたが私は馬鹿々々しいと思っていました。

今では少し気持ちがわかるとも思えますがやはり共感しづらい考えです。

星の王子さま』が昔から苦手だったのは『かもめのジョナサン』と同じ思想だったのか、と今気づきました。

 

寺山修司氏自身は『星の王子さま』が幼少期から大好きでずっと愛読していたということです。男女で分けるのは差別となってしまいますが男性はそういう夢見がちな要素が強いように思えます。

 

寺山修司の演劇『星の王子さま』はもう観ることはできませんが(他の人演出なら可能ですがそれはもう違うので)戯曲を読んで想像をしてみることはできるかもしれません。

好色でだらしなくしかし「決して人間嫌いではない男」になったという星の王子さま、寺山星の王子、を夢見ることは許されるでしょう。

f:id:gaerial:20210209065129j:plain

これは新しいものですが宇野 亞喜良がすばらしいので

 

『殺人の告白』チョン・ビョンギル

f:id:gaerial:20210207061549j:plain

ずっと気になっていた映画でした。

 

殺人の追憶』の原案ともなった実際の事件から想起された(というか『殺人の追憶』からなのでしょうけど)作品です。

既に時効となった連続殺人事件の犯人だと名乗る男がその顛末を小説として発行、しかも類まれな美男だったために韓国社会が騒然となる。小説はベストセラーでファンクラブが設立される。

事件に携わっていた刑事チェ・ヒョングは犯人を取り逃がし顔に酷い傷跡を残してしまっていた。真犯人と名乗る男イ・ドゥソクに疑問を感じる。

殺人の追憶』とは違いアクションと軽いノリがちょい苦手で何度か中断してしまったのですがやっと鑑賞完了しました。

 

美男という役で登場のパク・シフさんも良いのですがなんといっても〝班長”役のチョン・ジェヨンの顔がとても好きなのです。

削いだ感じのクールな顔に傷があるとさらに男前が上がるというタイプですね。

 

徹底的に面白い映画を作ろうという韓国映画界の意気込みが詰まり溢れかえった作品でマジで面白いのは確かです。

私としてはチョン・ジェヨン氏とパク・シフ氏の顔と姿を堪能できた、というだけで満足でした。

〝J”氏もかなり凄かったです。

 

f:id:gaerial:20210207070612j:plain

 

『あいつの声』パク・ジンピョ

f:id:gaerial:20210206062759j:plain

アマプラで何気なく選んだらソル・ギョング主演だったのでそのまま鑑賞しました。

この映画は創作映画として評価されるものではなく実際に起きた出来事を扱った記録映画として分類されるという判断でいいのではないでしょうか。

ソル・ギョングは本作の6年後『ソウォン/願い』でも実話映画に出演しています。

どちらも子供に関わる犯罪の映画でソル・ギョングの心の在り方を感じさせます。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

つまり一般の創作映画としてならもっと面白さを追求したものになるはずですが(特に韓国映画は)実話だからこそできるだけ平易であるよう心掛けて製作されている、という工夫でもあると思われます。

映画の形として実際の事件を記録しておきたいという意思があるのだと本作を観て改めて感じました。というのは他にも実話映画は数多くあるのにこれを観てそう思ったのです。

実話をもとにした創作映画、ではなく実話記録映画、なのではないのかということです。

もちろんこれは私の勝手な思い込みです。

『ソウォン』もあったからかもしれません。

 

 

ひとり息子を誘拐された夫婦の心情の移り変わりを演じたソル・ギョング、キム・ナムジュの演技で見入ってしまいました。

このふたりの舞台劇を観ているようでもあります。

子供を失うのではないかという慟哭に母親が自分の胸を打ちつける場面は痛々しいものでした。

ニュースキャスターである父親は傲慢でもあるのですがその男性が人目もはばからず動揺して走り回り泣き出す場面も辛いものです。

その結末はあまりにも惨たらしい。

しかしこの悲しみを残しておかねばならないという気概を感じました。

決して面白い映画ではありません。

それだけに観る価値はあります。

 

 

 

森喜朗と野口英世

www.nhk.jp

 

現在はどうなのでしょうか。私たち50代世代ならほとんどは教科書で彼の業績を読んだ記憶があるのではないでしょうか。

貧農に生まれ幼い時に片手に重度の火傷を負ったが人々の善意で手術を受けることができたゆまぬ努力で科学者となり黄熱病の研究途中で亡くなった。

多くの日本人が感動する人生の物語です。

そうでなくとも2021年現在使用されている千円札に印刷されている人物として日常観続けているわけです。

その野口英世の実際の業績と彼の人格がどうだったのか、これまでにもうっすらと聞いたり読んだりしたことはありました。

教科書で取り上げられていた「黄熱病」の研究は途中でしかなかった、彼の成功はむしろ梅毒の研究だったのだが梅毒で有名になったとなると小学生の教科書で表現しにくいため途中だった黄熱病を取り上げたのではないか。

野口英世と言えば母と子の愛情。母親の並外れた献身が常に賛美されますが実際は父親もいたのに酒飲みの怠け者(とどこかに書かれていた)だったのでこれも小学生の教科書には書きづらいわけでいなかったことにされていました。

また野口英世自身の人格も下劣ともいっても過言ではないようです。

金遣いが荒く勉学の為に援助してもらった金を遊びに使い果たしてしまう、また知り合った女性の持参金目当てに求婚し後に破談にするなど尋常ではないとさえ思えます。

その一方で確かに語学の勉強や医学の研究には異常なほど勤勉であったということでその部分にやはり日本人は共感と賛辞を送ったのです。

 

つまり教科書だけでなくとりあえずの噂話は聞いていたうえでのこのテレビ番組視聴だったのですが、その内容は小学校教科書を打ち消すなどというものではありませんでした。

それはむしろ「野口英世ってほんとうは大した奴じゃないんだよ」なんていうものではなく「野口英世の人格は科学者として人間として認めてはいけない」ものでありそれは彼だけの問題ではなく「日本人は結局人間の尊厳というものをまったく理解していないし、理解しようともしていないし、理解していない日本人を軽く容認している」ことを伝えているものでした。

 

折しも今現在東京オリンピックの代表である森喜朗氏の問題が巷で取り上げられていますが海外のメディアと日本のそれとではまったく意識が違うことがはっきりわかります。

これは野口英世問題とまったく同じなのです。

 

野口英世は梅毒研究で優れた科学者として持ち上げられ更なる栄光を得るために黄熱病の研究にとりかかります。

黄熱病の原因はウィルスです。当時の科学力ではその発見をすることはかないませんでした。つまり野口が原因究明するのは無理だったのです。しかし彼は「発見した」と発表しそのワクチンまで作ってしまうのです。

もちろん効果があるわけもないのです。

そして野口自身が自作の黄熱病ワクチンを打ってアフリカへ赴き黄熱病にかかって亡くなってしまうのです。

今までは科学力が達していなかったための不可抗力と思っていましたが当時彼に間違いではないかという進言、疑問を投げかけていた人も幾人もいたわけです。

なのに彼はその声を無視しました。

自分の可能性を都合よく解釈する、見たいものしか見ず聞きたい言葉しか聞かなかったのです。

まずは「黄熱病に打ち勝つ」という目標を掲げて嘘でもその目標を達成してしまったのです。しかしそうした彼の野望のために多くの人が偽物ワクチンを信じて亡くなってしまったのではないでしょうか。

これは東京オリンピック2020を開催しようとしている日本人たちその代表森喜朗の姿と重なります。

コロナ期にオリンピックを開催することは多くの人がコロナウィルスに感染して死んでしまう危険を意味しています。

それがわかっているのに何とかしてオリンピックという栄光をつかもうとしている。

そのことに疑問を感じて止めさせない。

もちろんネットを見ているとそれを嘆く人々もいますがその声は足りないのです。

この番組の内容が真実なら野口英世はまさに日本人の精神そのものを表している。だからこそお札の人物として今も尊敬されているのです。

その人物は栄光のためなら人命が亡くなることを予感しても自分の行動をやめなかった。むしろそれこそが立派な行いだと信じていたのでしょう。

日本人はまた同じことを繰り返そうとしています。

世界中の目が見ていてもその目を

「何があってもやり抜くあっぱれな日本人への尊敬の目」

と勘違いしているのです。

「日本人の勤勉さ、たゆまぬ努力」は外国人の憧れだと思い込もうとしています。

それ自体が間違いなのです。

 

野口英世は研究をやめるべきでした。

とはいえ当時を知らない私は仕方なかったのだろう、と憐れむしかできません。

 

しかし今現在それを「気づかなかった」と言い訳はもうできないのです。

私たちは気づいています。

新型コロナウィルスに人類は打ち勝ってはいません。

したがってその証をオリンピック開催で行うことはできません。

先にその目標を掲げて無理やり達成するなど愚かしいことはやめなければいけません。

そのためにどれだけの人命と人生が犠牲になるかを考えなければなりません。

最も大切なのはオリンピックではなく人命と人生なのです。

 

 

それを気付く前に森喜朗女性差別発言をして自滅しそうになっています。

なんという馬鹿々々しさ。

しかしこれで東京オリンピックが中止になるのならそれもまた良いのです。

 

 

 

『雲を抜けた月のように』イ・ジュニク

f:id:gaerial:20210204063511j:plain

イ・ジュニク監督作品アマプラにあるのを発見。うれしい。

しかも韓国の歴史ものを観たいと思っていたので一石二鳥の喜びであります。(鳥はかわいそうだが)

 

ネタバレになりますのでご注意を。

 

 

 

本作より5年前に製作された『王の男』と比較すれば華やかではないけれど、旅をするふたりの男、という関係に似通った好みを感じました。

成人前ゆえに髪の長いきれいな顔立ちの若者と荒くれ者の年長者という組み合わせも同じですし。

『王の男』で盲人の芝居をし最後には本当に盲人となってしまうのがチャンセンですが本作では最初から盲人として登場するファンが若いキョンジャを導き導かれます。

キョンジャは身分の高い男の子供ではありますが庶子であるために蔑まれています。こうした設定も監督の好みと感じますし私もおおいに共感します。

 

先日『ハイヒールの男』で見惚れたチャ・スンウォンが本作では冷酷無比な敵役モンハクとして登場し韓服姿を堪能させてくれました。

私が見たいと思っていた韓国歴史風俗をしっかり見せてくれ楽しませてくれました。

妓生の場面もよかったです。

 

イ・ジュニク監督作品もっと観られるといいのですが。

 

 

 

『残酷な神が支配する』萩尾望都 その4 『ブッダ』

f:id:gaerial:20210203071122j:plain

さて進めます。

今回はついに私が本作で感じた最大の懸念「イアンの存在」を考えていきます。

 

 

残酷な神が支配する』と『ブッダ』のネタバレします。ご注意を。

 

 

 

 

いったいこの世界に「イアン」はいるのでしょうか?

若く類まれな美貌と恵まれた肉体と豊かな財産を与えられた白人男性らしく彼は傲慢です。優れた頭脳と運動能力、友人も多く女たらしでもあります。他からは恐れられる父親からも愛されひねくれた弟も彼のことは好きなようです。

そんなにも幸福で万能なイアンは生命の危機にもなるほどまでジェルミを救うために青春の貴重な時間を割きました。

 

虐待の被害者ジェルミのような存在は世界中に数えきれないほどいるでしょうがイアンの存在がどれほどいるのか、彼そのものとなればそれは限りなくゼロに近いのでは、と思わされます。

『バナナブレッドのプディング』の御茶屋峠の外見に似ている、とは思っていますがその内面と設定はまったく違います。

特に彼が並外れた財産家で何不自由ない贅沢な暮らしが保証されている設定は変に謎でした。

 

しかしイアンもまたこの物語のもう一人の主人公でもあります。彼もまたこの物語の中で変化し成長していきます。

何も怖くないかのように思える傲慢なイアンはジェルミとの出会いでジェルミを失ってしまうのではないかという恐怖を覚えてしまいます。

ジェルミを助けようとするイアンの行動はそもそもは「俺ならできる」という自信に満ちたものだったのが何度も何度も間違いを犯し何度も何度も挫折の絶望を味わいます。

その過程を読み追いかけていくことだけでも非常な困難と辛抱を必要とします。

暴行とレイプを受け続け肉体も精神も打ちのめされたジェルミはイアンから逃げ出し連れ戻され回復と悪化を何度も繰り返します。やっと悪夢から逃げ出せたかと思ってもまたもやグレッグ(『バナナブレッド』のレギュラーですな)が登場して彼を鞭打つのです。

そんなジェルミのそばにずっと寄り添い続けるイアンはついにジェルミの口から

「ぼくを生んで」

という不思議な願いをされることになりしばらくの時間を経た後に

「彼を生んだ 気がした」

という感覚を持つまでになります。

この究極の感覚を得る部分で思い出したのが手塚治虫の『ブッダ』でした。

私はシッダールタの話を別に読んだことはないのでここからはあくまでも手塚治虫著『ブッダ』からの話です。

愛情がない父母を信じられず冷酷に育ったアジャセ王は頭が膨れ上がるという病に苦しみます。それを知ったブッダは毎日12時間を3年の間アジャセ王の額に指を当てその苦しみを和らげるのです。ブッダの指先から彼の温もりが伝わりアジャセ王を安らかにしたのでした。

やがて腫れがひき回復したアジャセ王は微笑みます。その微笑みを見たブッダは「神は人の心の中に存在する」ことを悟るのです。

 

もしかしたら「イアン」は「ブッダ」なのでは。

ちょっととんでもない比較ですがイアンの信じられないジェルミへの救済の姿はそう言っても過言ではないように思えます。

ブッダは王の跡継ぎでありました。もちろん城の中で何不自由ない暮らしをしていたのです。

過剰なほどのイアンの裕福さはブッダの化身だからなのではないでしょうか。

彼は「イエス・キリスト」ではないのです。(裕福な生まれでもないし)

彼のように触れるだけで盲目を治した奇跡を表したのではないのです。

ブッダ』でアジャセ王だけに3年もの月日を捧げた、自らのオーラをアジャセに注ぎ込み病を癒したブッダの姿にこそ重なります。

イアンという名前は漢字で「慰安=心を慰める」ことからきているのではないかとさえ考えます。

 

ブッダの変わり身であるのならイアンがとてつもない裕福な家庭の御曹司であるのも理解できます。王子なのですから。

ジェルミへの信じ難い献身と救済も理解できるではありませんか。

 

イアンがキリストではなくブッダであるというのは奇妙に納得してしまいます。ジェルミの心の癒しは瞬間的に起きるものではなく長い年月を必要とするものだったのです。