寺山修司の作った不思議な世界がとても好きです。とはいえ彼の作品の主体は演劇なのです。それはもうすでに観ることはかなわないのが残念です。
私ができたことはディスクに収められた映画を観たことと手に入る本を読んだ、ということになります。
そしてやっと今頃『ぼくが戦争に行くとき』を読むことができました。
読んだのは1969年に刊行された単行本を文庫化したものでありました。
つまりこの本には1960年代半ばの日本社会と日本人と寺山氏の考え思いが記されています。
その中で特に指が止まったのがほんの数ページ(というか2ページ半)の『便所の中の星の王子さま』でした。
安冨歩著『誰が星の王子さまを殺したのか』を読んでまだ間もなく私としてはここに書かれていた「モラル・ハラスメントの罠」という副題が示す通り「バラが王子に対して行ったモラハラ」そして「狐のセカンドハラスメント」という解析が頭ではなるほどと納得しても心からその解釈に心酔できないのはもともと私が『星の王子さま』を好きではなかったからじゃないかとも思っていました。
ところが寺山修司の2ページ半『便所の中の「星の王子さま」』(しかし寺山らしいタイトルですね)を読んで一気に世界が広がるような快感を得てしまったのですからやはり私は寺山世界が好きなのだなと思わずにはいられませんでした。
寺山修司は書きます。
「何百万の星のどれかに咲いている、たった一輪の花をながめるだけでしあわせだ」
というサン・テグジュペリの『幸福論』をあたためていたものであった。だが「見えないものを見る」という心的な力、星の王子さまの汎神論は、よくよくつきつめていくと「見えるものを見ない」というエゴイズムと、うらはらになっているのではないか、ということに思い当たる。『星の王子さま』は、ほんもののヒツジを見ようとせずに、箱の中にはいっているヒツジを想像しようとする子供である。
この文章は私の気持ちにあまりにもぴたりとあてはまるように思えました。
これは安冨歩氏の解析が寺山氏よりも劣ると言いたいものではありません。
理屈で言えば安冨氏の星の王子論は素晴らしいと思うのです。
しかし心の動きはやはり自分自身と深くつながるものなのです。
安冨氏の「星の王子さま論」もまたやはり本人の心理と重なったものであるのは氏本人も認めることであるでしょう。
氏の経験されたことを見聞きしていれば「星の王子さま」が安冨氏自身であり、バラから受けたモラハラが氏自身の体験から導き出されたのは間違いないのです。
つまり自分とまったく関係ない解釈ではない、ということになります。
それでいうのなら私は安冨氏ほどにはモラハラの苦悩を感じていないのでしょう。
そしてむしろ寺山修司の書いた解釈「おとなになった星の王子さま」の表現に深いため息をついてしまうのです。
「見えないものを見ることが本当に大切なことなのだ」
という言葉を信じそしてその言葉を崇めることは
「見えているもの(つまり目の前にある現実)は大切ではないと無視することなのだ」という相反性になるのです。
そして寺山修司は当時の社会がすっぱり両極端に分かれてしまっていることに疑問を呈しています(笑)(いつの時代も)
そしてさらに
要は両者の葛藤であり、あらゆる思想は、ドラマツルギーであるということを知ることである。
と続けます。
その通りです。
見えないものを求め愛する気持ちと見えるものー仕事・家庭の中で働かなくてはならない義務・責任のどちらかだけをとるわけにはいかないし両方のバランスをうまく保ちながら生活することが大切なのだと思います。
いわば「星の王子さま」は「見えないもの」ばかりに気を取られ「見えるもの」に気づかなかった、あるいは見ようとしなかったことが彼の死に結びついたように思えます。
私は夢見がちな少女でありながら夢ばかり追うことには拒否感があったようです。
例えば『かもめのジョナサン』も夢を追い続けることへの憧れを謳った小説で当時爆発的なヒットを飛ばしましたが私は馬鹿々々しいと思っていました。
今では少し気持ちがわかるとも思えますがやはり共感しづらい考えです。
『星の王子さま』が昔から苦手だったのは『かもめのジョナサン』と同じ思想だったのか、と今気づきました。
寺山修司氏自身は『星の王子さま』が幼少期から大好きでずっと愛読していたということです。男女で分けるのは差別となってしまいますが男性はそういう夢見がちな要素が強いように思えます。
寺山修司の演劇『星の王子さま』はもう観ることはできませんが(他の人演出なら可能ですがそれはもう違うので)戯曲を読んで想像をしてみることはできるかもしれません。
好色でだらしなくしかし「決して人間嫌いではない男」になったという星の王子さま、寺山星の王子、を夢見ることは許されるでしょう。