ガエル記

散策

『血界戦線』内藤泰弘そしてアニメ

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なぜか急にアニメ『血界戦線』ED観たくて聞きたくなったのですがそれだけじゃ足りずそのまま第一期観始めました。

放送中から好きでコミックスまで買うほどではあったのですがその時は実は「とはいえちょい軽い?浅い内容なんだよな」と失礼ながら思っていたのですが終わってからもたびたび思い出し妙に観たくなってしまってはいたのでした。

原作漫画のすばらしさがあるからこそのアニメ作品なのは当たり前のことなのですがアニメにはまた加算された良さがあって特に本作アニメの出来はとんでもないところまで行ってるのではないかと思えます。

 

観なおしていると以前よりもっとその良さがじっくりわかってくるようでした。

 

「こんなに面白くて楽しいアニメ他にそんなにない」

 

「いやマンガそのものがすばらしい」

 

なんというか、今更感じていて遅すぎるのですがこの『血界戦線』世界は奇跡のような存在だと私には思えます。

現実のニューヨーク、というより少し昔のニューヨークのイメージに幻想世界を混ぜ込んだカクテルの妙味に酔いしれています。

主人公の一途なレオ、獣のような身体を持ちながらその精神は紳士のクラウス、軽薄な最低男ザップたち各メンバーはどこか懐かしい面々なのです。

 

でもやっぱクラウスのかっこよさは破壊的です。

生命をかけたチェス、飛び入りでの格闘技痺れます。

『かげきしょうじょ!!』アニメ

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アマプラでふと目に留まりとりあえずで観始めたのですが最近ないほど面白いアニメでした。とはいえまだ開始一作目の新しいシリーズです。

 

原作もまったく知らず今季アニメも一応タイトルはチェックしたつもりでしたがその時はぴんときていなかったのでしょう。というかもともと興味を持つ方面ではないから仕方ないかもしれません。

 

紅華歌劇音楽学を舞台として少女たちが夢を目指す、というお話ですが主人公は元アイドルなのですがファンの男性に「キモイ」と叫んでクビになり女子だけしかいない学校へ入学するというちょっと変わった始まりでした。

 

とは言ったもののこの出だし設定はなかなか気になるものでした。

私はもともと「アイドル反対論者」です。この場合の「アイドル」は日本における一般的アイドル歌手と呼ばれるアイドルのことです。「あの子はわが社のアイドルだ」とか「アイドル的存在」という意味でのアイドルではありません。

変な説明ではありますが本作の中で言われている「アイドル」はまさしく私が反対しているアイドルです。

なので奈良田愛がアイドルであることにおぞ気をふるって辞めてしまったのは凄く共感できる設定だったわけです。じゃあなぜ彼女がそんなに嫌なアイドルになってしまったのか。それもまたわかる気がするのですね。嫌だと思うほどその世界に入ってしまう謎がこの世にはあるのです。

 

原作を知っていたわけじゃないので真だかじった程度ですがもしかして原作では彼女が主人公ではないのかな。

身長178センチでオスカルを目指す渡辺さらさがヒロインだったのですかね?

が奈良田愛目線で物語が進むのはとてもわかりやすくて良いように思いました。

 

テレビ放送に気づかなかったのが残念ですが(いつものパターンであるけど)昨今珍しく追いかけてみようと思ったアニメ番組でした。

 

『ラストウォー1944 独ソ・フィンランド戦線』アンティ・ヨキネン その2

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そしてこちらが『Kätilö』で検索して出てきた画像です。素晴らしいとまでは言い難いですがさすがに内容をイメージさせる仕上がりになっています。

日本版はこちら

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大きく映っているのが上ポスターでロマンチックな横顔の彼です。そして右下隅の小さな女性が主人公で上のポスターの真ん中にいる彼女です。

この二つのポスターが同じ映画だとは思えませんね。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

本作は色々な意味で新しさを感じさせます。

第一はなんといってもヒロインの描き方でしょう。

これまでの戦争映画ならば「助産婦」の仕事をしてナチの手助けをしているような女性でその兵士と恋に落ちてしまう、という設定なら思わず見入ってしまうような嫋やかに美しい繊細な女性を選ぶのが当然でした。

だけど本作の主人公女性ヘレナは相手のドイツ兵士より背が高くがっしりとした体格で細面に丸縁のメガネをかけ眼光鋭く意志が強く堂々としています。

ハンサムなドイツ兵士に一目惚れして彼の後を追いかけていった先が地獄のような恐ろしい場所ー人体実験を行う収容所でした。

助産婦をしていたヘレナはここでチフスコレラを捕虜に投薬するなどの仕事を任されます。

舞台となるフィンランドはこの時点でドイツ軍と休戦協定を結んでおり主人公はナチにとってはもう「敵」ではなく収容されている捕虜はロシア人です。とはいえヘレナたちフィンランド(そしてラップランドという地方)人にとってドイツ兵たちの存在が穏やかでいられるわけもありません。

しかもそんな中でヘレナは一人のドイツ兵ヨハネスに心を奪われてしまうのです。彼が何か特別なことをしたわけでもなくまさしく佇まいに恋してしまった、という感じでした。

一方のヨハネスはヘレナに少しずつ好意を覚えていく感じです。この過程もかつての映画では逆のパターンが多かったはずであえてこの設定をしたのだと私には思えました。

ふたりが仲を深めていく時も積極的なのはヘレナでありそんな彼女にヨハネスが引き寄せられていく、という描写になっています。爆撃に震えるヨハネスを励ますのもヘレナでした。

こうした逆転的な表現はやはり今までとは違う映画を作りたい発想から生まれているのでしょう。

ヘレナはヨハネスを深く愛し、自分が進んだ道とはいえ収容所での行為を憎悪し所長であるSS将校ゲーデルに反抗していきます。

このナチ将校ゲーデルの描き方もこれまでとは違う価値観と演出を思わせます。

命じられた地獄の所長をやり遂げなければならない憐れさです。

老けて痩せこけた容姿にもそれが感じさせられました。

 

このあたりの設定に『ノートルダムのせむし男』を思い出してしまいましたが、ヨハネスはせむし男カジモドとハンサムな衛兵フェビュスを兼ね備えているといった感じでしょうか。

ナチ将校ゲーデルは一見立派だが残酷な司祭フロロです。

美しいジプシー娘エスメラルダがヘレナとなりますが憐れなエスメラルダと違って本作のヒロインは自ら戦い抜き愛を勝ち取りました。

私は『ノートルダム』のエスメラルダの描き方に不満を持っていたのでこの映画で払拭された思いです。

 

しかもキリスト教会とナチによる人体実験収容所が重ねられた舞台になるというのは恐ろしい比喩です。

 

それにしても本作はやはり新しい形の映画だと思えます。

これからもいろいろな形式で新しい戦争物語は作られていくでしょうが、本作はその重要なテキストになるのではないでしょうか。

 

マンガアニメ小説なども含めクリエイターには是非勧めたい一作です。

 

 

 

『ラストウォー1944 独ソ・フィンランド戦線』アンティ・ヨキネン

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見入ってしまう映画でした。原題はフィンランド語『Kätilö』意味は『助産婦』です。
そのとおり画像のヒロインが助産婦でドイツ兵士と恋をするお話でした。

 

そして日本語タイトルが『ラストウォー1944 独ソ・フィンランド戦線』で紹介画像がこれです。

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右下極ごく小さい分量の女性が主人公なのですが。

日本映画界は相変わらずこういう宣伝方法を使うのですがこれではドンパチ戦争ものを期待した観客はがっくりですしラブロマンスや人間ドラマを求めている人々は観ないでしょう。

私は単純に独ソ+フィンランド戦という状態を知りたくての鑑賞だったのですがまさかこんなにも素晴らしい価値を持つ映画とは微塵も思いませんでした。

戦争好きががっかりするのはどうでもいいですが良い映画を求めている方は是非確かめてもらいたいと思います。

 

 

戦争の中で人は人間でなくなる。

心優しいはずの男が兵士として人を殺し、助産婦もまた人を殺す。

 

もうこれ以上私に罪を背負わさないで。

 

ヘレナの悲痛な叫びを私たちは聞かねばならない。

 

『ゆっくり不動産』YouTube

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雨穴さんの『不動産ミステリー変な家』に触発されてミステリーのほうではなく不動産にはまりだしました。

 

なんとなく見つけたのが『ゆっくり不動産』です。詳しくはないのですが「ゆっくり」方式の動画です。あの不思議感覚話法が気にならなければとても楽しめます。

慣れただけなのかもしれませんがこのシリーズのゆっくり声はかなり良いと思えます。

 

まあ、いくら紹介されても家など買えるものでも賃貸できるものでもありませんが住めないだけにいろいろな家を見せてもらえるのは楽しいです。

そういえば以前はテレビ番組でもこういう「おうち拝見」みたいなものがあったと記憶しますがやはり住めないとしてもおうちを夢見る人は多いのですね。

 

おまけにゆっくり特徴のイントネーションのない九州弁も楽しいです。

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たしかに日本の家屋で天井が高い、という物件はなかなかないのでは。少しゆとりのある高さ、とかではなく6メートルもある高さという異常さが良いです。

 

そして冒頭にお見せした

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今やパラサイトでおなじみの「半地下物件」

ふむ確かにこれは秘密基地的わくわく感があります。

特にこのドライエリアと称された外界へと続く梯子スペースは楽しすぎます。

これをやりたいためだけにここに住むのも良きです。

 

いやあ、YouTubeの夢は広がります。

『ブリムストーン』マルティン・コールホーベン

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アマゾンプライムにて鑑賞しました。なんとプライム無料今日いっぱいなのでお早めに。

 

アメリカ西部劇で観てきた時代に女性たちはどのような存在だったのかを描いています。

とはいえ本作は昔話をしているのではなく男性社会で女性がどのような暴力にさらされてきたのか今でも苦しんでいるその姿と重ねて描写しているのは明らかです。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

その暴力性は主人公女性の父親である牧師によって象徴され具現化されています。

彼は女性を自分に従順に従う奴婢と位置付けています。聖書の教えを都合よく解釈し自分の行動を正当化していくのですがこうした価値基準が常に暴力性と共存するのは往々にして見られることです。

 

暴力的男性のシンボルである牧師は妻に絶対的な従属を求め重労働と性行為を強制しています。しかも実の娘である主人公にもそうした従属を求めるのは教義的に間違ってはいない、と主張するのです。

反抗し口答えした妻には口枷を装着させた姿を人前にもさらします。

こうした行為を誰も非難しないのも不思議でしたがこれも往々にあることです。

 

 

アメリカ映画で(監督はオランダ人とのことですが)こうした暴力性が牧師や神父、敬虔なキリスト教信者を配して表現されるのはそうした大きなストレスと暴力は強く関係しているからなのでしょう。

 

S・キング『キャリー』の母親、スタージョン『人間以上』のアリシアの父親などが私に強烈な印象を残しています。

そして本作の父親である牧師がその名簿に刻まれました。

 

本作の主人公リズは牧師である父から性行為を強制されて逃げ出したものの買春宿で働く羽目になりそこでも女性の無力さを知らされます。

女性たちは男性の暴力に抗う力がないのです。

そんな世界でもリズは自分ができ得る限りの能力を使って逃げ延び戦っていきました。

リズにも娘が生まれ今度はその娘を守るために全力を尽くします。

しかし運命は彼女に過酷でした。

 

仏教徒なら「因果応報」というべき描写が本作には何度もありますがキリスト教作品なので単純に罪と罰というべきなのでしょうか。

 

リズの少女時代に放浪してきたアウトローがいますが彼が天使のように見える場面があるのに彼は簡単に牧師に殺されてしまいます。

本作の製作者はまったく神を信じていない、と思えます。

そしてリズは戦い抜いた後にそれでも死を選ばねばなりませんでした。

これも「神は存在しない」という作り手の意志なのでしょう。

 

さて、これを昨日書いた「ゼロサム・ノンゼロサム」思考をしてみたらどうなるのでしょうか。

本作は確固たる「ゼロサム」思考で出来上がっています。男性社会そして暴力は「ゼロサム」思考なのですから当然です。

そして作り手は「ノンゼロサム」思考をまったく拒否しています。

 

本作の徹底的な悪は牧師が担っていますが牧師のこの異常な行動と思想もまた彼が受けたであろう暴力から生まれたに違いありません。

本作の評価に「何とも言えない絶望感」があるのは牧師の暴力の原因がまったく無視されているからです。

無論作り手は絶対的にある男性暴力性を悪の権化として成立させたいのですから原因を描写することは女性の苦悩を矮小化する、と考えたのかもしれませんが私は逆だと思います。

 

フィクションは様々な形が考えられます。

本作は虐げられてきた女性の歴史をそのままに表現した、のですが私はそれだけではフィクションである映画作品としてはやはり物足りないのです。

それだけでは「虐げられる女性を観るのが好き」な観客のための映画とも考えられそうです。

例えば牧師の魂を救うことはできなかったのか。

リズが幸福になってはいけなかったのか。

どんな人間にも罰が与えられてしまう本作には疑問が残ります。

 

 

余談ですがちょうどテレビ放送されたらしい『おおかみこどもの雨と雪』にも同じような疑問と反感を感じています。

 

 

『メッセージ』ドゥニ・ヴィルヌーヴ その2

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映画『メッセージ』で描かれるのは異星人との会話だけではなく主人公女性とその娘との対話でもあります。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

主人公と異星人の対話と娘との対話が挟み込まれる構造となるのが素晴らしい。

主人公女性と相棒となる男性は異星人との対話に苦悩します。異星人から示されたメッセージの解読が困難なのです。

 

場面が変わり主人公の娘が宿題なのか母に聞きます。

「両者が納得する、という意味の言葉ってなんだっけ」

「妥協?」「違う」

「ウィン・ウィン?」「もっと理論的なやつ」

言語学者である母親はこの時ぴったりの言葉を思いつかず

「パパに聞いて」

と答えるのです。

 

再び場面が変わり異星人との対話に手間取っています。

異星人は地球12か所に12分割したメッセージを送っていたのです。

つまり12か所のどこかの国が別の国を出し抜いて異星人との対話を完成することはできないのでした。

その時「パパ」である(となる)男が口にします。

「ノンゼロサム

 

そう。

この映画のメッセージはまさしくこの

「ノンゼロサム

なのです。

この和訳は「非ゼロ和」となるのですがどうにも奇妙な日本語です。果たして日本語といえるのでしょうか。

むしろ商売言葉の「三方よろし」のほうがぴったりくる気もするのですが「ノンゼロサム」の場合は「三方」にとどまらないのですから「全方よろし」とでもいうのでしょうか。この場合も「全方」という日本語はないようです。全方位と書かねばなりません。

 

そしてこの「ノンゼロサム」は映画においてもあまりない思考といえます。

誰も損をしない、誰もが得をする、誰もが勝利者である、という形よりも敵と味方を分けどちらかが勝利する、という形のほうがよりスリリングであり満足が得やすいからでしょう。

その価値観を高めるために敵はいかにも悪のキャラクターでなければならず主人公は観客が共感できる正義のキャラクターに描かれます。

そして憎々しい悪である敵を倒し、主人公が望む幸福を手に入れるわけです。

これが「ゼロサム」=どちらかが勝ち、どちらかが負ける(ことでゼロになる)というわけなのですね。

お宝は一つしかありません。

ある時はこれが美しく愛らしい女性であり、そのハートを射止めるのは誰か、いけすかないライバルの男か、観客の応援を受ける主人公か、です。

まさか美女がふたりの男性と結婚する、というラストになってしまうことはないでしょう。(ごく特別な場合を除けば)

戦争、スポーツ、芸能だけでなくすべてのジャンルにおいて「誰が優勝し、誰が敗者になるか」という勝負を描くのがゼロサム作品でした。

ほぼほぼすべての映画・マンガ・アニメ・小説はこの葛藤を描いていくものです。

 

例えば昨今多くの題材となった女性がハラスメント・虐待・暴行を受けたことを問題提議する作品もこのゼロサム思考が根底にあります。

まずは男性が上位になりたいために女性の身体や心を犠牲としたゼロサムが発生しそれを問題として戦い女性が自分の身体と心を取り戻し勝利し男性が打ちのめされるという逆ゼロサムで決着します。

 

そう考えるならこの映画でも異星人との戦いはノンゼロサムで決着したものの地球人同士の結婚と子育てはノンゼロサムとして決着できずに終わっています。テーマに添うなら主人公たちもノンゼロサムを構築しなければならなかったのではないでしょうか。

 

とはいえ現在世界はゼロサム思考に満ちています。

「強いものが勝つ」などというのがそれでしょう。

世の中がその思考で満ちているために様々なゲームや作品もゼロサムの面白さを追ったものに価値観が見出されます。

もしかしたら、と思うのですがこれまで世界を創ってきた男性たちはこの「ゼロサム思考」が強く女性たちはむしろ「ノンゼロサム思考」が強いのかもしれません。

だからこそ本作の主人公は女性が選択されたのではないでしょうか。

 

さてこの映画はどのように評価されたのでしょう。

私が感じる限り日本ではそれほどの大人気ではなかったように思えます。

「誰も損をしない、誰もが勝利者である」という価値観はあまり面白くない、のかもしれません。

 

そうえいばチェスや将棋・囲碁などのゲームでも女性が少ないのを「女性は能力が劣る」とされているように思えていましたがそうした「勝ち負け」に価値観を見出すのが女性はあまり好きではないのかもしれません。

戦争も勝ち負けを競うスポーツも男性が生み出したもので「女性は向いていない」とされてきましたが当然なのかもしれない、と本作を観て納得したように思えます。

それらはすべてゼロサム思考から生まれているからです。

 

本作の異星人はそうしたゼロサム思考の地球人に

「そろそろノンゼロサム思考したほうがいいんじゃない?」

と伝えに来たのでしょう。

しかし映画内でも主人公たちは自分たちの人生をノンゼロサムできずにいます。

考えることはできても実行するのは難しいのです。

 

そしてゼロサム戦争はもうやめた方が良いし、金メダルにこだわるオリンピックももう終焉を迎えたようです。

ノンゼロサムゲームはこれから増えていくのでしょうか。

ゼロサムを競うのではなくノンゼロサムを目指すゲームはどのようになるのでしょう。少しでも誰かが得して(損して)いればそれは成立しないというゲームです。

 

女性問題論争でも「男性にとってもそれがいいのだ」という論調が増えてきていると思います。

ゼロサムにこだわることは辛いことではないでしょうか。

金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」ということばは今からほんとうに考えられるような気がします。