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『 Sonny Boy 』夏目真悟 再鑑賞&再考察 その2

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昨日は1・2話を元にした考察をしました。今回は3・4話を元にして考えていきます。

 

昨日の記事で本作は異世界への漂流というSFを土台にして現在の子どもたちの人生と苦悩を当てはめていると書きましたがそれだけでもなく夏目監督の現在日本のアニメ作品への批判も盛り込まれている、ということは以前にも書きました。

そして監督が体験見聞き吸収した様々なコンテンツを再構築していったのが本作品となっている、のは当然といえば当然ですが。

 

今回は現在の日本アニメ作品への批判という点を先に書きます。

現在の日本アニメは利益のためと称してあまりにもエロと暴力を追い求めすぎていてそのために世界基準に乗ることができずにより大きな利益を得られない、という奇妙な矛盾を抱えています。

キャラデザインのみに焦点を当ててもかつてのように年齢や容姿の幅がなくなり若い年齢で同じように綺麗目の顔立ちばかりになり男性のエロチシズムはさほど感じられないものの女性の体つきは異常に性を強調するデザインを追求していると思われます。

 

本作品のキャラデザインは人気漫画家・江口寿史原案となっているために容姿は綺麗ですがその影響はメインの長良・希・瑞穂・朝風とキャップぐらいで脇役になればほとんどそのイメージからは離れていきます。

明星・骨折そして各回ごとに登場するキャラはもうかなり違うものになっていきますがなんといっても突出して秀逸なのはラジダニです。

日本の中学高校を舞台にしたマンガアニメは数えきれないほどありますがどういうわけか主要に活躍するのは日本人ばかり、というのが特に男性系作品には多いのですがはっきりインド人という設定で正直もっとも活躍する人物としてラジダニを描いたのは希少といっても過言ではないはずです。白人設定なら少しはあると思うのですが色黒系のアジア人設定はほとんど見られないのが現状です。

他の方々のレビューを見てもラジダニの評価は高くどうして彼のようなキャラがもっと出なかったのか、まさかララァまでさかのぼらなくてはならないのかと言いたいですがアレは学園ものではないので別枠です。

 

さてこの作品は楳図かずお漂流教室』ヴェルヌ『十五少年漂流記ゴールディング『蠅の王』などを基盤に描かれています。

漂流教室』は以前書いた通り楳図かずお氏の戦争体験をもとにされているための暴力表現と私は考えていますがゴールディング『蠅の王』はヴェルヌの『十五少年漂流記』に対するアンチテーゼとして「幾人もの少年たちが裁かれる法もない状況におかれたのならこんな甘いものではないはずだ」と殺人まで発展する無秩序な暴力を描いた作品です。

本作でも『蠅の王』をイメージさせる描写が出てきますが内容ははっきりと『蠅の王』に対する再アンチテーゼとなっています。

4話「偉大なるモンキー・ベースボール」にも登場するエースはいわば『蠅の王』の悪役ジャックのひとりとも思えますが本作で彼は「実社会では輝かしい未来の期待の星」であるにもかかわらず漂流世界では「泥水も美味しく飲める超能力」と「サルゲッター」という野球をする猿を観ることができるようになる懐中電灯を手に入れた、というあまり意味のない存在価値になってしまうのです。

さらに最も本作で破壊的な能力を手に入れた朝風はその能力を結局は使いこなせないままに終わってしまいます。

他のマンガアニメ作品ならば主人公であるべきこのふたりが本作では暴力装置としての機能を見せることができないのです。

 

またヒロインである希と瑞穂の表現も独特です。

彼女たちと無気力な長良を観るとどうしても『エヴァンゲリオン』を思い起こします。たぶん夏目監督はかなりあの作品を意識して本作を描いていると思われます。

無気力な主人公・碇シンジと長良はよく似ています。

髪の短い方の少女である綾波レイと希が主人公にとっての癒しと憧れになっているのは似ていますが希は主人公にとって都合のいい存在ではないと描いていくのは違うところでしょう。

碇シンジエヴァンゲリオンという母体の羊水の中に浸り続けたのに対し、長良の母親は彼をまったく抱擁してはくれないのです。

 

髪の長い方の少女アスカと瑞穂も気が強く苛立つところが似ていますが結局何の解決もしないまま物語が終わってしまったアスカとシンジに対し瑞穂と長良は対立しケンカしながらも互いを思いやり謝り関係を修復していく過程が描かれていきます。

 

エヴァンゲリオン』のシンジが最終的にまた別の女性へ移っていったということへの問いかけのようにも思えます。

と書いていたらそうか、マリはアキ先生として登場したのだと思いました。

おっぱいが大きい、というのがみそです。

だから朝風はアキ先生のおっぱいに溺れたのですが夏目監督が表現したい長良は彼女の方へはいかなかったのです。

 

 

『 Sonny Boy 』夏目真悟 再鑑賞&再考察 その1

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『SonnyBoy』このままさよならは寂しいし再鑑賞すればまたなにかつかめるのかもともう一度(二度三度)観て再考察してみます。

久しぶりに1話2話を観てみたら最初の頃は結構雰囲気がが違うのですね。

そしてこれから新しい物語を作り出していこうとする昂ぶりが感じられます。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

この物語は少年少女たちが亜空間に漂流してしまったSFであると同時に思春期の彼らのモラトリアム期を重ねて表現していると思えます。

最終回で『二年間の休暇』という小タイトルを付けたことからもその意味は感じられます。

この物語に登場する教師はじめ大人たちは少年少女たちにとって拠り所になれる存在ではないのが注目点です。

まだなにも判らない子どもたちが人生を進んでいくため有意義な助言をしてくれる大人のメンターが存在しないのです。

しかし子どもたちにはそれはわかりません。

本来教師の言葉には従うべき重要な価値があり、両親は保護者であるはずなのですが現実は必ずしもそうではないのです。

 

本作品はそうした現実社会から切り離されてしまった子どもたちを描いているのではないでしょうか。

 

主人公・長良は親から見捨てられた少年です。ラインのやり取りに答えがないこと、親子と教師の面談に親がやってこないことからそれがわかります。

そして自分が見捨てられていることに悲しみケガをした鳥を見捨ててしまったことを希に指摘され苛立つのでした。

 

8月16日長良たちのクラスはいわゆる登校日だったのでしょうか。その日に教師との三者面談をするはずが約束をしていたはずの長良の母親は学校にきませんでした。その理由は明確ではありませんが彼の心が傷ついていることは確かです。

 

長良は現実社会という暴力に苛まれた少年です。

例えば楳図かずお漂流教室』の主人公が母親から愛され楽しそうな少年時代を送っていたことと比較するとそのギャップは甚だしいものです。

それは『十五少年漂流記』との比較でも同じです。

 

そんな気持ちを抱えて本作の主人公・長良は異世界へと漂流するのです。

冒頭の長良が現実社会へ戻ろうとする気持ちがまったく見られないのは当然です。

 

しかしそんな長良の気持ちが次第に変化していくのが描写されます。

傷ついた鳥を見捨てた長良が希との語らいを経て迷い猫を保護し瑞穂に渡して感謝される、そんな経過をたどり友人たちのために自分の能力を役立てることに喜びを見出していくのです。

 

この喜びは現実の学校教育の中ではあまり感じられない感情のようにも思えます。

学校の制度では常に個々の競争を強いられ能力に順列をつけられることに価値があるからです。いわば他人を落とし自分が優位に立つことがすべての世界なのです。

しかし漂流世界ではそうした現実世界での価値を持つ者、成績上位の委員長や野球選手として期待される生徒の評価が失われてしまうのです。

代わりに現実社会ではダメダメだった朝風や長良の能力が生存戦略として活用されていきます。

 

さてちょっと話がそれますが物語には大きく二つの種類があるといいます。

いわば男性的物語と女性的物語です。

 

性差を言うのははばかられることではありますがわかりやすいのであえてそのまま使ってみます。

 

男性的物語といえば主人公の男子が旅立ち経験を積んで大きなパワーを得て怪物と戦いお姫様と王国を手に入れる、という立身出世物語です。

 

女性的物語は逆の物語です。

遠くへ旅をするというよりも自分の心を見つめ自分が求めている真実を追求し幸福を得る、という心を癒す物語です。

 

本作品の主人公は男子で異世界という旅をしていくのですが怪物と戦って恋人を手に入れるわけではなく自分の心を追求していく話です。

 

長良は異世界の旅というモラトリアム期を経て実社会に戻りますがいわばお姫様=恋人を得てはいません。宝物も王国もなしです。つまり戻った世界が見違えるようなハッピーランドだったわけでもなくモテ男になったわけでもなくバリバリ働ける有能男になったのでもないのです。

しかし弱い鳥を思いやる=困った人を助けたい、という気持ちを手に入れます。

その気持ちだけが彼が得たすべてです。

しかしその気持ちによって希と再び接点を持つのです。

それは長良が自分でつかんだ大切な出会いなのです。

長良の成長をもう一度観ていきましょう。

 

 

 

 

 

 

『 Sonny Boy 』#12「二年間の休暇」夏目真悟

 

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いやもうね。絶対悪くはならない、と思いながらも(しゃれではない)最後だけ緩かったら悲しいな、とついつい思案したのは結局杞憂に過ぎず想像した以上の完璧な最終回でした。

オリジナル製作自体が困難でしかもここまで売れ線を外し切った企画がどうして成功したのか。江口寿史キャラクター原案(しかも原案に過ぎずメインキャラ以外はかなり自由)という要素だけでこれだけの作品が自由に作れるのならこれからもメインキャラデザ原案のみ売れ筋要素にして自由にオリジナルアニメ作品を作っていってほしい。結局は設定とわき役と物語が重要なのですから。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

タイトルは『十五少年漂流記』の原題Deux Ans de Vacancesからきていますね。

そしてその通り長良たちの漂流は二年間の人生の休暇だったのでした。

 

さらに長良自身が断言したように現実は変えられることはないのです。

彼は元通り平凡で目立たない少年でしかも貧困家庭のために高校生でバイトを強いられ上司から怒鳴られ疲れ切って帰宅し半額になった弁当を食して黙々と過ごす人生を繰り返すしかないのでした。

 

虚しいのはかつてなら接点のなかったはずの希や瑞穂のような魅力的な少女たちと漂流期に近しくなれたのに現実に戻ってしまえば元の彼女たちとはもうつながることはないことです。

 

さて本作は楳図かずお漂流教室』が元ネタともいわれていました。『漂流教室』は主人公たちが新しい未来を切り開こうと駆け抜けていく力強い終わり方で感動を与えてくれました。

それに比べ本作の終わりはずっと重苦しいものです。

「どうせ世界は変えられない」

これは現在の日本社会をそのまま表現しています。

漂流教室』の時にはまだあった未来への期待が50年近く経った今ではすっかり消え失せてしまったように思えてなりません。

それでも長良はこの世界を選択し生きようと決めたのです。少し後悔はしていますが。

 

わずかに見えた希望は瑞穂がいったん漂流の記憶を失ったかに思えたのがなにかのきっかけで取り戻したということです。

(夜の学校内でコップを割って窓の外に怪しい人影を見た、というエピソードは何を意味しているのでしょうか)

そして以前傷を負った鳥を見ないふりをして通り過ぎ希に嫌われた長良が今度は気になり安否の確認をしようとした、ということです。

その結果一度目は通り過ぎていってしまった(元の世界の)希から声を掛けられる、というハプニングが生まれます。

確かに長良は変わったのでした。

現実世界での希は朝風と付き合っていますがやはり彼女は傷ついた鳥を助けずにはおられない優しい少女だったのです。

そして燕のヒナを通じて現実に長良は希との接点が生まれたのです。

この出来事は世界を変えるほど大きな出来事なのです。

なにしろ

 

可愛い女の子との接点がなかった少年が自らその接点を作り出したのですから。

 

希はその名のとおり長良にとっての希望だったのです。

その希望を自分でつかんだこの出来事はどんな革命よりも大きなものなのです。

 

世界は変えられないけど自分は変えられる。

 

長良のようなSonnyBoyではなくてもすっかり年を取っていたとしても人生はもう少しだけ続きます。

燕ののひなを心配する。そんなことでも違う自分を見つけられる。

二年間の休暇を経て長良は確かに変化したのです。

 

瑞穂の言葉にも助けられました。

 

「大丈夫だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

『コードギアス 反逆のルルーシュ』

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という画像を挙げていますがこれを観てるわけじゃないのが辛い。自分が住んでいる場所ではやっていないのか探したけどわからなかったのでした。

というか実を言うと偶然dアニメストアで観ている途中でこの情報を得たのですが徒労に終わったようです。がっくり。

 

まとにかく配信で一足先(?)に観られるので良しとしないとね。

 

突然観始めたのは最近はまりこんでいる「ヤンサン」山田玲司氏の解説で気になってしまったからです。

まったくの未見、というか観ようかとした時もあったのですがルックと設定で入り込めなくて観ずじまいになってしまいました。

今回も最初はキャラデザの目のでかさとあごの細さに引いてしまい王子さまとかブリタニアとかどうなのか、と思いながらも山田玲司氏を信じぐっと我慢して観続けました。

なんとか6話までたどり着いたところですが確かにここまでくるとかなり馴染んできました。

 

まだ特に内容についてどうこう言えるほどではないのですが少なくとも男女性差によるストレスはかなり低いといえます。

 

ここで話が変わってしまいますが「ヤンサン」チャンネル山田玲司氏の解説は岡田斗司夫解説とははっきりとした違いがあるのが面白いです。

作品それ自体のみの分析ではなく時代が反映されていくのが大きいのですよね。

年を取っていくとどうしても昔好きだった作品の見返しばかりになりがちで新しい作品には批判的になりやすい。

それは自分の思春期時代に生まれた作品ではないからなのです。

 

自分の感性をその時代にチューニングするのはなかなか難しいことなのですがそうすることによって新しい発見があるのは確かです。

 

 

 

 

『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』幾原邦彦

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凄まじいイメージが怒涛となって溢れ出してくる作品でしたね。

少女にとって自分が女性であると認識することがなんの躊躇いもなく誇りとできる日は来るのだろうか、とさえ考えてしまいます。

本作はいわばそうした決断をした少女たちの物語なのではないでしょうか。

 

とはいえ多くの方が指摘されているとおり本作はTVアニメシリーズの補佐として鑑賞するものなのでしょう。私自身はTVシリーズを観てしまっているので観ないまま本作に出会った鑑賞者がどのように思うのか「なにこれ?」となるのだろうなと想像はします。

 

自分を殺して生きる、死んだまま生きることを選択できれば幸せでいられる。

しかしやはり自分を殺して生きることを選べばいつか必ず後悔してしまうのです。

 

男性は男性の苦しみがあるように女性もまた女性の苦しみを耐えるようにと社会は運命づけました。

そのしがらみを断ち切るべきだと女性たちが活動を始めて長い時間が経ちましたがその壁はあまりに高く分厚くその外へ出るのはまだ先のようです。

 

ウテナがその身を車に変えて囚われのアンシーを外へ運ぶイメージは素晴らしい。

その行動を阻止する者もいれば応援する人たちもいるのです。

 

性の相手であり男性の遺伝子を伝える子を産むためであり、家事育児を担うため主人の支えとなるために女性は存在してきました。

それは男性のためにすべきことではなく男女両方の目的であり手段であるはずなのです。

もちろんそれが女性同士男性同士のためであってもいいのです。

 

現在アニメ作品の多くは現代に生きる苦悩の解決を様々なバトルの形式で表現したものがメインであると言えます。

幾原邦彦監督はその中でも極めて劇的な手法で特に少女時に少年の苦悩を表現してきました。

私は少女の苦悩を直視することが怖ろしくて長い間それを避けてきたようにさえ感じていますが、やはりそれから逃げてはいけないと最近強く思っています。

そして少女たちの戦いは少年のそれとは違うものでもあると思っています。

 

時間が経ちすぎてしまいましたが幾原邦彦という表現者を知ることができて本当によかった。またここから受け継がれていく表現者が増えることも期待したいものです。

『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』神山健治

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もう数えきれないほど見返してきたけどまた観てます。

てか再生し始めたら止まらない。

ここまで面白くクオリティ高いアニメは数少ない。

まずはルックでストレス少ないのが嬉しいです。

こうした大人の作品が増えて欲しい、と願ってばかりですが攻殻機動隊シリーズ自体少佐がどんどんロリ化してしまってどうしようもないというね。

 

 

ネタバレ、というのかどうかですがご注意を。

 

 

ぞっこん惚れ込んでいるアニメ作品ですがあえて愚痴から書いてみます。

それこそオープニンから草薙素子がその高い性能を示すために高層ビルから飛び降りる場面があるのですが日本では(ほかの国ではあったか?)なぜか女性が高いところから水に飛び込む、という始まりが多いのです。

たぶんヒロインが他の女性とは違う気の強さを持っている、天衣無縫というキャラを演出するためだと思うのですがあまりにも多すぎてちょっとそこで辟易してしまうのです。

史郎正宗氏の原作でも確かに素子はビルから飛ぶのですが飛び方が自然で勢いで飛ぶ感じではなくスマートなのですがアニメでは思いきりタメを作っちゃうのがちょい笑える。

まあしかしもしかしたら強い女性は高いところから飛び降りるのが定番なので(女子高生が遅刻遅刻~で走るくらい)あえての演出なのか、とも思ったりします。

とはいえ強い女性が飛び降りる演出はさすがにもうやめて欲しい。

コンテンツ作成諸氏にお願いします。

おんな城主 直虎』もこれをやっててそこで観るのをやめてしまった。良い作品だったのにそれがなかったら見てたのに、と後悔させられました。

 

というのだけが自分にとっての残念でしょうか。

 

後は物凄い人情物語が多い、とは感じるのですがこっちは決して嫌いではない。

一話はそうでもないけど2・3話は思いきりセンチメンタルで泣けます。

 

4話ですでに「笑い男」なんだなあ。

『007 スペクター』サム・メンデス

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ツイッターでタイトルとダニエル・クレイグの画像を見てついつい観てしまいました。

再鑑賞です。

 

先日も書いたけど一時期ダニエル・クレイグにはまっていた時があって同時期ベン・ウィショーにもはまっていました。

何しろ『スペクター』はふたり共演なので観ずにはおけなかったものですがふたり共演はこれが初めてではなくて以前に『ザ・トレンチ(塹壕)』『Jの悲劇』『レイヤーケーキ』でもされていたわけです。

その後それぞれがメジャー俳優になりしかもダニエルは007になってしまったので再びの共演などあるのかしらと思っていたらまさかの『007』での共演になるとは。

しかも〝Q”というダブルオーとは親密な関係の共演なので嬉しい限りでありました。