ガエル記

散策

大槻ケンヂくんのインタビュー読んでー昭和男のモテとはー


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今朝いきなり目に入ってしまった、というかいつもどおりツイッターでありがたいことにリツイートもしくはいねで教えていただいたという情報でした。

 

大槻ケンヂさんの言葉は読みやすいししっくり頭にとどまるようで心地よいのですが、このインタビューもまたそうでしたが、軽く読み飛ばすだけではすまない内容に思えました。

 

大槻ケンヂさんは年齢も近いし(彼のほうが3つ年下)マンガや当たり前だけどロック好きでオカルト好きなオタク系なので当然される話が凄くよくわかる、わかりすぎるほどよくわかります。

惜しむらくはこちらは地方住みなので東京の場所的話になると本当は知らないのだけどなんとなくわかった気になってしまっている自分がいます。

 

そして大槻氏の活動についても本当はそんなにというよりほとんど何も知らないのですが長い間ちょこちょこと顔を見て話を聞いてきたので長きにわたる知己のようにすら感じてしまっている自分がいるのですね。

 

もういつの頃だったか定かでもないのですが顔に傷を書き込んだひょろっとした若者が(自分も若者だった)テレビなんかでちょっと腰が引けた感じで話していたりしてたのが凄く共感出来てでも音楽はあんまりだったので購入したことはないのですが本は買って読みました(古本だったとは思いますが)

今もですが当時の男性の書いたものとして非常にフラットな感覚の人だなと思ったものでした。というのは男性女性という性差に関して「昭和の男」とは思えないほどの偏見のなさを感じたのです。

その感覚と言うのはこのインタビュー記事を読んだらよくわかるのではないかと思います。

 

それにしてもこの短いインタビュー記事で色々なことが見えてきた気がしてしまいます。われわれ世代はやはり平成ではなく昭和の気質で生きてきたのですね。

昭和人間昭和男昭和女、その中に良さを見つけ愛する人もいるでしょうが私はどうしてもそれらが嫌だった。懐かしさを感じて「あの頃はよかった」という気持ちはまったくもっていません。

特に昭和男の気質には何の未練もないし、早く消え去って欲しい。

大槻さんは自らも昭和男でありながらそう言った男たちの根本が「モテ」だったと見抜いていてしかも「そういう時代は終わった」と書いている。「モテたと書いたのは嘘だった」とも。物凄い事実詐称、歴史修正ではありませんか。それを含めて昭和男なのかもしれません。

 (そういえば話題の歴史修正作家も昭和男の見本のような)

 

大槻:“モテる”は昭和の男の重荷だったんだよね。今じゃ信じられないけど、いい車に乗って、いい酒を飲んで、いい女をはべらかしてっていうのを実践して、こうすれば俺みたいになれるよって次の世代に見せつけるのが、昭和の男のやるべきことだったんですよ。でも段々と人生そういうことじゃねーべっていう風になってきて、今や誰もそんなこと言わなくなったし、目指さなくなった。そんな物質的欲望が、ようやくバカバカしいことだと気付いたんだねぇ。もうそういう話をする時代じゃないし、僕もそういう年代じゃなくなったということです。

 

なんかね、諸悪の根源っていうのがここにある気がするのです。

昭和男の目指すものがこの“モテる”にある。女にもてる、そして物を持ってる、っていうね。

そういう“モテる”が男の真骨頂なのだと昭和男は信じ切っていたし、自分もかなえようとしたしかなってなくてもかなってるふりをしていた、ということですね。

ところが時代を経て平成男子女子から「おじさんたち、そういうの恥ずかしいですよ」と言われて「へっ?」となったのだと思います。「そこに幸福があるのですか?」と。

 

幸福は物質的欲望からは見いだせなかったんです。

 

だって男女の愛って結局ひとつだけじゃないですか。何故「モテる」必要があるのか?一つだけでいい、というより一つしか手に入らないのに?(重婚禁止の話です)

一戸建てとかすげえ車とかブランドものの服やカバンとかそういうのを手に入れれば幸福になれるかというとそうではなかった。

大槻ケンヂくんにしたって昭和の男であるがゆえにそれを強調することが跡に続く若者たちへの励ましになると信じていたわけです。

でもそんな嘘はもう言う必要がなくなったのですね。

 

じゃあ、昭和女は何を求めていたのか?

自分自身が昭和女なのによくわかりません。

とにかく昭和男のエゴイズムに振り回されそれに対してどう自分を処するかということばかり考えて来てしまったようにも思えます。

その頃に昭和女がもっと昭和男とガチで勝負していたら今の女性たちがもう少し楽でいられたのでは、と反省するしかないようにも思えます。

いまやっと女性たちは「我慢という枷」をはずそうともがいています。

昭和男の欲望を満たすためにできあがったもろもろのおもりを今やっと若い女性たちは外そうとしているのですが、昭和女たちがもう少し「我慢」せずにあがいていたら今の女性がこんなに苦労しなくてもよかったのではないかとすら思うのです。

 

ところで今「我慢」という言葉の意味をみたら

 

1.
辛い事を耐え忍ぶこと。「飲みたい酒を―する」「殴り倒されて―にも立ち上がれなかった」。こらえて許すこと。
 「この失態も今度だけは―しよう」
2.
仏教
自分を偉いと立てる(わがままな)慢心。
 「―の角が折れる」

 

とありました。

ふつうに使う時はもちろん1の辛いことを耐え忍ぶこと、ですが確かに漢字をみれば「我が慢心」の略ですね。

昭和女のあるあるは「自分(女)が完璧にすることで相手(男)を見下すことができる」という不可解な戦術を使うことでした。

「家事も育児も完璧で嫉妬などもしない女性になることで何も家事をせず浮気ばかりする夫に見せつけて何も言わせない」という奇怪な論理です。

なるほど「我慢」ということばには「我慢することで我慢となる=耐えることで自分を高く見て他人を軽視する心」という意味合いがあったわけです。

 

こうした昭和女の奇妙な「我慢」は昭和男の「我儘」を増長させました。

 

おかげで今、若い人たちは歪み切った性差現象を正しい形にするために苦悩し続けなければなりません。

 

今ネットでの様々な戦いを見ているとほんとに申し訳なく苦しいです。

 

あとあれだ、ジョークばっかり言ってみんなが笑い合える世界になったらいいなと願っているってこと!

 

ほんとそうです。

やっぱり大槻ケンヂ君(いつのまにか君付け)はさすがだよ!と思いながらそう願わずにはいられません。