ガエル記

散策

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』庵野秀明

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アマプラにこれがあって「?」となりました。ほんとうに本編なのだと理解するのにしばらくかかりました。観るのはずっと後になると思っていたのですが、せっかくなので鑑賞することにしました。

 

私はテレビ版を観た時から『エヴァ』に非常な反感を持ってしまった側の人間です。

なので長い間知っていたとはいえ、多くのファンのかたがたのように「エヴァと長い長い旅をしてきました。その旅も終わったのですね。ありがとう」というような感慨はまったくありません。

しかし同じく長い長い時の間反感を持ってきた者として「やっと刑期も終わるか」というような感慨は持ってしまいました。

そしてかなり長時間の本作を観てこれまでの「反感」は間違ってはいなかったと思いその結末がここまで悲しいことなのだと改めて思わされました。

 

さて私は何に対してこうも強い反感を持ち続けたのでしょうか。

私が持ち続けた「反感」は庵野秀明監督の才能が「ニセモノを再構築する能力」へ向けられたものでありました。

 

 

庵野氏の作品は彼が観てきた様々な作品の記憶の寄せ集めです。しかもそれを変化させまったく違うものに昇華させて表現するのではなくむしろそのまま再現することに意義を持っています。

これは別に私だけが発見したわけじゃなくほとんどすべての方が感じていることでしょう。

庵野監督の盟友である岡田斗司夫氏も彼の作品のすべてがそうした「庵野が好きだったものが集められて作品となっている」ことは語られています。

岡田氏は非常に友情に厚い方でいつもは鋭い批評も庵野作品になると突然柔和になってしまうのは微笑ましくもあるのですがそれでもやはり批評の端々に庵野氏の弱点が漏れてしまうのは仕方ないことなのです。

 

「好きだったものの再現ばかり」なのは庵野氏の他作品では明らかですね。『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』『シン・仮面ライダー』かつては『宇宙戦艦ヤマト』をリメイクしたいと思われていたようですがその時に「何も変えずそのままリメイクしたい」というのが庵野氏の思考を表しています。

しかし「リメイク」ならまだしも、そうした借り物ばかりで作った『オリジナル作品』の末期は悲惨です。

 

庵野氏が『エヴァ』の締めくくりに時間がかかったのはもう自分の持ち駒をすべて使い尽くしたことで次の展開がどうしてもできなかっただけなのではないかと思えます。

結末を描写できる新しい「ネタ」をつかむまで彼はオリジナル作品を創造できなかっただけなのではないでしょうか。

 

とはいえ子供時代に培った「好きなもの」で作られた旧エヴァ作品と違い大人になって慌ててかき集めた「好きなもの」は情動の威力が桁外れに違うのです。

そして年老いて描く少年処女のエロチシズムはすでに干からびて見えてしまいました。

 

他の監督であればかつて少年少女であった主人公たちが老年となった姿を描いたのでしょうが「そのまま」を好む庵野監督はそのままの主人公たちで物語を続けました。

私には彼らがすでに年老いているのを気付かず少年少女ごっこをしている年寄りのように見えて悲しいのです。

皮膚はもうたるみ身体はかつてのように若々しく動けないのに無理をして見えます。

彼らはゾンビのようなものなのです。

 

本作には少女たちの全裸が何度となく出てきますが果たしてその全裸にエロチシズムを感じた人がいたのでしょうか。

少女たちが痛みで絶叫する場面も苦しむ場面もあるのですがそれらにはもうなんの感情も起こさせないのではないのでしょうか。

エヴァのファンたちですらただもうこの鎖から解放されるという喜びで悲しい末期を見守っていただけなのではなのかと思うのです。

 

庵野秀明という人の好みは王道の好みでした。端っこのマニアではなく多くの賛同者がいる好みなのです。

宇宙戦艦ヤマト』『ウルトラマン』『ゴジラ』『仮面ライダー』から発想を得、

カドカワ映画のロゴをタイトルに使い、キリスト教の文言をアイテムとして自分の作品として作り上げたきた砂の城です。

本作で使われた台詞も安直なセリフの集大成としか聞こえません。

使われた音楽もまたマニアックなものではなく有名なありふれたものを好むのが庵野チョイスなのです。

多くの支持者がいるものばかりで作られた作品だからこそあれほどの観客動員を呼びすなわち大きな興行成績となったのです。

 

私がテレビ版で最初に観て反感を持ったひとつは一種の学園ものだったことです。

日本で最も人気の出やすい学園もので始めるのが庵野感覚なのです。

次に途中から登場する「渚カヲル」くんが不思議にBL的であったことですが結局はソレ風味だけなのでした。

本作ではいくつかビアン的に見える場面がありますがすでにソレ的に見せる気力もないのです。

 

借り物ばかりで作られた物語にどうして感情をこめられるでしょうか。

それでもかつてはそれを感じさせたのかもしれません。

しかし末期を迎えた本作には人間の情愛・友情・やさしさなどまでもすべてマガイモノになってしまったと私には思えてしまうのです。