ガエル記

散策

『史記』第十五巻 横山光輝

ついに最終巻となりました。名残惜しい。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

第1話「呉楚七国の乱(前編)(後編)」

 

14巻で登場した晁錯の物語から始まる。

文帝は古代からの政道を記した尚書書経)を学びたいと思い尚書を知るただ一人の生き残りを求めたが当人が90歳を越える老人だったので優れた者を学ばせに行かせた。それが晁錯であった。

(なぜ尚書を知る者がたった一人かというと焚書坑儒儒学が衰退したからである)

晁錯は数年間尚書を学んで戻り太子の教育係となった。

やがて晁錯は太子邸の家令にまで出世していく。

さらに晁錯は文帝に上書した。諸侯に対しもっと法を厳しくして諸侯の領土を削減すべきとしたのだ。

中央の権力を強大にすべきという考えだった。

これに反対したのが袁盎だった。各国の王はすべて劉氏一族。その方々の領土を削っていけば却って劉氏の和にひびが入ることになる、という考えであった。

このことから二人は犬猿の仲になる。

文帝の間は袁盎が重用されたが文帝が崩御し景帝の時代になると晁錯が重んじられ内史(首都の知事)となり帝とふたりきりで法が決められていった。

さらに晁錯は御史大夫に昇進した。そして以前から考案していた諸侯の領土削減政策を実行したのだ。しかしそのためには袁盎が邪魔である。彼は袁盎に冤罪を負わせ死刑にしようとしたが景帝は彼を隠居させるにとどめた。

 

袁盎を政治から切り離せたことで晁錯は計画を進める。諸侯の罪を調べ上げ領土を削っていった。

その中でも晁錯が特に早く力を奪いたいのが呉であった。

この理由がなんとも恐ろしい。かつて景帝が太子の頃、酒宴の席で呉の太子と博奕に興じていた。ところが博奕の規則をめぐって口論となり激怒した景はその博奕盤を呉の太子に投げつけ殺してしまった。

怒った呉王はそれ以来病気と称して朝廷に参内しなくなった。文帝はそれを咎めず肘掛けと杖を贈った、というのだが。いくらなんでも太子を殺され杖と肘掛けを贈って「咎めないよ」と言ったというのは理不尽ではないか。

とにかく晁錯はこのことからも呉王の謀叛を最も危ぶんでいたということだろう。

 

晁錯は呉王の罪を並べて領土を大きく削減した。

晁錯の父親は息子の行動を嗜めたが通じず父は毒を飲んで自害した。

 

晁錯の父が案じた通り呉王から反乱の動きが始まった。反乱は呉楚七か国に広がったのだ。

ここで景帝は呉に詳しい袁盎を召し出した。袁盎は景帝に「晁錯を殺せば反乱は終わります」と告げる。景帝はやむなく寵臣晁錯の殺害を認めた。

 

袁盎は呉王の元へ行き事の次第を話し反乱を収めて欲しいと伝えたが呉王は「もう遅い」と答える。そして袁盎に「わしに仕えないか」というのだった。

 

袁盎は呉王がすでに皇帝になったつもりだと感じ説得は無理と考え呉陣から抜け出した。

老人である呉王だが国力に自信を持っていた。七か国による反乱は成功すると確信したいてのだ。

だが景帝が反乱鎮圧を頼んだ将軍周亜夫は冷静に対処していく。梁王からの援軍要請を無視してまで昌邑を守備し反乱軍の補給線を絶ったのだ。これによって反乱軍の兵たちは離れ呉王が暗殺されると反乱軍の士気はたちまち失われていった。

 

諸侯たち一族は自害し七か国の反乱は終わった。がこれも晁錯ひとりの領土削減計画が引き起こしたものと言える。

 

後に弟梁王が帝の後継者を自分にするよう景帝に申し入れたが袁盎が反対してこの話は壊れた。梁王はそれを恨み袁盎を暗殺した。

 

第2話「大単于冒頓」

物語は中国から北方の遊牧民族に移る。

ここに至ると世界観の苛烈さに打ちのめされてしまう。

横山光輝氏『チンギス・ハーン』は既読なのだが中国文化ともかけ離れた壮絶な物語に絶句した。

日本人感覚では中国史の衝撃は想像を絶する刺激があるが遊牧民族に至っては苛烈としか言いようがない。それほど自然が厳しいということなのだろうか。

そうした世界の中に住む人々との戦いは中国人にとっても想像を超えたものがあったのではないだろうか。

 

冒頓は太子でありながら単于(君主)である父親に敵国月氏へ人質として送り込まれてしまう。

父・頭曼は後妻に産ませた次男が可愛くて長男・冒頓を廃嫡したくなったのだ。

敵国の人質となれば戦争の時に真っ先に殺されるのが運命。

父・頭曼は長男・冒頓を敵に人質として送り戦いを挑んで殺させようと企んだのだ。

が、冒頓は殺されそうになったものの反撃し自分の力で馬を奪い父の元へ戻った。

父・頭曼は喜んだふりをしたが冒頓はすべてが解っていた。

そうして冒頓は大単于になる誓いを立てる。

父から一万騎を与えられた冒頓はこの中から自分に忠実に従う者だけを選び従わない者は殺していく。そのためには妻も犠牲にした。

そしてそれら忠実な部下を引き連れ父・頭曼を殺害。継母・弟を殺し父の側近も殺した。

それ以降単于となった冒頓は東胡王を討ちとり、月氏を破り、オルドスの楼煩族、黄河の南の白羊族をはじめ次々と諸国を征服していった。

 

匈奴が出現して千余年、遊牧民族は互いに争い分裂離散を繰り返していた。だが冒頓はこれを一つにまとめ中国に匹敵する一大国家を作り上げた。

漢は娘を冒頓に嫁がせ綿・絹・酒・米を納めて和親政策をとったのである。

 

最終話「禍の男」

前140年、漢朝は七代皇帝が即位した。十六歳の武帝である。『史記』の筆者司馬遷の現役の時代である。

 

武帝は歴代の皇帝の政策を受け継ぎ国境を犯す匈奴には今までより多大の贈り物をして和親条約を結び国内政治に力を入れた。

干ばつや洪水もなく豊作続きで農民たちの生活も豊かになった。

 

だが漢を恨む一人の男がいた。元漢臣の中行説である。

 

文帝の時代、皇女を冒頓の息子・老上単于に嫁がせた。中行説はその皇女のおもり役として匈奴へ赴くこととなったのだ。

中行説は不満だった。

学問に励み宦官にまでなったのは帝の側でお仕えし偉くなりたかったからだった。

それが砂漠と家畜の国で暮らせと言われたのだ。朝廷は彼の夢を奪った。

中行説は自分の手で和親政策を壊してやると誓う。

「漢にとって禍の男になる」と言い残し匈奴へ向かったのだ。

 

匈奴に着くと中行説は老上単于に帰順を申し入れた。

中行説は学識をもって単于に取り入り数か月で側近になった。

漢からの使者の接待もした。漢の使者は匈奴を蔑んだが中行説は匈奴がいかに優れた戦士であるか説いた。

そして単于には幾度も漢侵攻をけしかけ単于もその気になった。

 

文帝の十四年、老上単于はついに十四万の兵を引き連れ漢領へ攻め入った。

多数の住民を奴隷にし、大量の家畜を奪った。

驚いた文帝は戦車騎兵を出動させたが単于はさっさと引き揚げてしまったのだ。

それ以後も漢は匈奴と何度となく和親条約を結んだが匈奴は一方的にそれをやぶって漢領へ侵犯し掠奪を繰り返した。

中行説は「漢の禍となる」と誓ったがその目的は充分に果たしたのであった。

 

やがて老上単于が他界し、息子軍臣が単于となった。中行説は彼にも漢侵攻をけしかけた。

 

武帝の時代になっても和親政策は続けられたが武帝はこれに不満だった。

武帝匈奴討伐を考えさせた。

匈奴は数年間漢に被害を与えたが漢にも将軍が育ち始め匈奴を次第に追い詰めていった。

単于は砂漠の奥深くに身をひそめた。

漢はオルドス地方を平定し始皇帝時代よりも大きく領土を拡大した。

武帝は泰山で封禅の儀式をおこないその力は絶大なものとなった。

 

司馬遷は宮仕えをしながら『史記』を綴り続けていた。

 

中行説はどうなったのだろうか。

 

本作はこれで終わり。

司馬遷が歴史をまとめた書なので自分の時期で終わるわけですね。

紀元前という世界にもこんな物語があったのです。