ガエル記

散策

『バビル2世』横山光輝 ①

去年2023年の6月17日(思えば横山光輝氏誕生日の前日)にこのバビル2世の一巻を買ってそこから横山沼潜行が始まりました。

正直に言うと私は『バビル2世』世界がそれほど共感できなくてバビル2世のかっこよさに頼る読書でしかなかったのですがこの8か月ほど横山作品にほぼ浸かりこんでいたので少しは世界を知ることができるのでは、と再読に挑戦してみます。

なにしろ一度目の読書記録は殆ど意味を成していません。今度はじっくりと読み進めてみたいものです。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

バビル2世のこのかっこよさはすぐわかる。少年期のエネルギーですよね。

ふむう。

とはいえ読み返しても『バビル2世』という物語がどうしてもそのままの出来事として受け止めるのは無理に思える。あまりにも不思議なエピソードの羅列で何らかの隠喩の物語としてしか読めないのだ。

この作品は少年向けに作られていて私も少女期にアニメとして観たのだけどこの作品が理解できるのは中年以降になってからではないのだろうか。

横山氏は30代後半になって(40歳前後に)この作品を手掛けていて気持ちとしてはヨミ側だったのではないかと思うのだがどうなのだろう。

 

というのはバビル2世とヨミの対立がどうしても若年者と年配者のそれに見えるし能力が伸びていく時期の少年と失われていく老年期の戦いにしか思えないのだ。

バビル2世になる前の浩一の生活は幸福なものだった。優しい両親の愛情を受けて裕福に育てられたと言ってよいだろう。

そんな浩一は少年期に天啓を受け超能力者となる。一人息子を奪われた父親の嘆きの方に共感してしまいそうだ。

が、浩一は微塵も後悔がなく父母を省みることもなくひたすらまっすぐ前に進む。

この行動力は頼もしくもあるし不安でもある。浩一は思い悩むことがない。

いや冒頭で考え続けてはいるがそれは自分を呼ぶ声がなにかを知りたい好奇心だ。

夢の表現がすばらしい。バベルの塔が建っていないと戸惑う浩一の目前で「ザッ」と砂が立ち上がる。これで浩一は夢の言葉を理解し始めるのだ。

両親は一人息子の浩一に「おれがいなくなるとこまるかい」と聞かれ慌てる。

そうして息子は予言どおりに不思議な怪鳥(ロプロス)にさらわれていくのだ。

 

急展開で浩一はバビル2世となっていく。

浩一が夢を見て何者かに呼ばれているように思う様子はジャンヌ・ダルクの物語を思い起こさせる。

浩一は男ジャンヌ・ダルクなのかもしれない。

 

ところで横山光輝氏は女性マンガ家に強い影響を与えた、と言われている。

萩尾望都氏は自分でもよくそのことを言われているし『バビル2世』は『スターレッド』の素地になっているのは一目瞭然なのだが私はむしろ山岸凉子氏が横山要素が多いと感じてしまうのだ。

山岸氏が後期作品として「ジャンヌ・ダルク」を選んだのは『バビル2世』に通じるものがあるから、というのは言い過ぎだろうか。

 

バビル2世となった浩一は留まることなく歩み続ける。

コンピューターで学習したバビル2世はヒマラヤに住むヨミという男に会いに行く。コンピューターがヨミという男こそ将来バビル2世の良き友となるか強力な敵となるか示したからだ。

バビル2世はヨミと出会うがその対応に失望するのだ。

ここで突然視点がヨミの方に移ってしまう。

ううむ。作品の中で視点が動くのは困る。が、作者が描きたいのはまさにここのヨミの心理なのだから仕方ないのだ。

(本来ならヨミの視点で描き始め突然バビル2世という少年が目の前に現れた、とすべきなのだろう)

今まで読者はバビル2世視点で読んでいてヨミという男と初めて出会いこの男と友になるべきか敵とすべきかとわくわく読んできたのにこのページで突然私たちはヨミ側に立たされてしまうのだ。

 

私たちはヨミの気持ちになって自分から去っていくバビル2世を見る。バビル2世は急に立ち止まってこちらに振り返り氷の如き冷徹な目を私(ヨミ)に向けてきたのだ。

「あの目はおれと戦うことを決心した目だ」そして私(ヨミ)は怒る「わしを友として選ばず敵として選んだ。無敵の力を持つわしにやつは挑戦してくるつもりなのだ」

ヨミである私は少年の冷たい眼差しに怒り狂う。「私を友とせず敵とした」という怒り。こんな心理は辛い。しかし人生の中でかつては自分がバビル2世だったのだからいつかはヨミとなってしまうのは必然なのだ。(とはいえバビル2世ほどの能力を持ったことはないのだが)

横山氏は何故ヨミを年配者にしたのだろうか。

少年バビル2世は自分の行動を正義と信じ突き進む。

これに対してヨミの行動は常にバビル2世を意識して決められている。

それがとてもつらい。