ガエル記

散策

『ダイモス』横山光輝

小学館「小学四年生」1973年11月号~1974年3月号、「小学五年生」1974年4月号~1975年3月号連載

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

上の表紙画像からして興味を持つ。

かっこいいロボットに鎖。そして少年の足元におじさんふたりが倒れているがなぜか同じ容貌でメガネのおじさんふたりだ。

表紙からして描き間違い?ということはあり得なくもちろんこれが導入のヒントになっている。

 

本作は「小学四年生」から「小学五年生」という極めて限られた対象向けに連載されていたわけですが特にそうした低年齢向けだからという手抜きは感じられません。

むしろ非常にセンシティブと言ってもいいほど特殊な条件を扱った設定ではないでしょうか。横山氏は「小学4・5年生だからこそこの特殊な設定を感じ取ってくれる」と思われた気がします。

 

冒頭日本の山深い小さな農村で子どもが生まれた、と思しき場面から始まるがなぜかそれを見守る人々が双子であろう同じ顔の何組かの人々なのだ。

連れてこられた一人の赤ん坊を見てそれらの人々が口々に落胆の表情をして「ひとつ子じゃ」「奇形児じゃ」と不可思議な感想をもらす。

さらに「この子は殺すべきじゃ」とまで言い出すのだ。

それを出産直後の母親が這い出して「なんといわれようとも私はこの子を育てます」と言い切る。

見守っていた人々は相談して母親の言い分を認めるが「しかし優れた血をひいた我々一族と同じとは思いませんだ」とこちらも言い切って出ていった。

 

この作品は1973~74年にかけて描かれた作品でいわば『バビル二世』と『マーズ』の間に位置していて先日読んだ『セカンドマン』と同時期ともいえる。

横山光輝氏のSF世界を集めたような作品と言ってもいいのではないだろうか。

 

前に挙げた奇妙な会話の謎はすぐに説明されていく。

彼らはかつて火星に住んでいたダイモス一族だった。

その火星では彼らダイモス一族ともうひとつのフォボス一族が「どちらが優秀か」ということでいつも戦争をしており何千年というあいだ和解することもなかった。

ついに核戦争を起こして火星を死の星にしてしまったダイモス族とフォボス族は地球に脱出したものの今でもふたつの種族は戦い続けている、というものだ。

こう書くとあまりにも子供じみた笑い話のようだが、現実に地球上ではそうした戦いが続いているのだからこれが馬鹿々々しい話でないことは確かだ。

というかそうした馬鹿々々しい戦争をやめられないのは誰かな、という物語なのである。

 

ここにひとつ横山氏は奇妙な設定を加える。

主人公の真介はこのダイモス一族の村で毎日酷い虐めを受ける。「ひとつ子のできそこない」という差別による虐めでまったくなにも救われることがないのだ。

にも拘わらずそれともそれゆえかこのダイモス一族の村が全員殺戮されただひとり残された真介は「そうだ、ぼくはダイモス人だ。たったひとりになってしまったけど、ぼくはりっぱなダイモス人だ」という誇りを胸にフォボス人と戦うことを誓うのだ。

 

散々に苛め抜かれて生きてきたのにそのダイモス人であることを証明するために戦うと誓う真介。

この設定感覚が横山氏の特異な才能だと思える。

 

さらにこの設定は『マーズ』でもあったが「フォボス人は地球の歴史上幾度も地球を征服しようと試みた。それを阻止してきたのがダイモス人だ」というものがある。

それゆえフォボス人は地球人の社会に深く食い込み絶えず社会を動かしては地球を乗っ取ろうとしている。その企みから守ろうとするのがダイモス人なのだ、とうものだ。

そのダイモス人は山奥でひっそりと慎ましい生活を送っている、という解釈である。

 

これもまた横山作品の根幹にあり横山作品の清々しさになっている。

 

 

ところで・・・私はこの作品を読んで初めて気づくことがあったのだ。

実を言うと私は(女性だからかもしれないが)巨大ロボットの魅力、がまったくわかっていない。

男子、どころか男性諸氏がやたらと『鉄人28号』やら『ガンダム』やらに夢中になってしまう気持ちをまったく理解していない。私にとってはそのドラマが面白いのであって巨大ロボットそのものにはあまり興味はないのだ。

 

勿論目の前に「鉄人」や「ガンダム」があって「自由に使っていいよ」と言われれば夢中になるだろうけど妄想で巨大ロボットに憧れるほど想像力はない。

 

なのでそうした巨大ロボット作品でも人間関係に興味を向けるのは当然だった。

『鉄人』でも大塚署長村雨健次と正太郎クンとの関係性に萌えるものだろうと。

しかし本来ならば『鉄人』自体と正太郎クンとの関係性に萌えるのではなかろうか。

なぜか本作『ダイモス』でそれを感じてしまったのだ。

 

なんと言っても本作の真介はあまりにも孤独だ。

その孤独さは『バビル二世』の比ではない。バベルの塔もコンピューターもロデムもいない。後の局長や伊賀野氏もいない。(似た人物が敵にいたがw)

バビル2世よりも幼く(だからたぶん小学4・5年生なんだろう)父母も死んだ。敵は大勢の大人であり敵意むき出しのフォボス人。そんな中で唯一ダイモス一族と言えるのは巨大ロボットダイモスだけなのだ。

 

横山ロボットは無機質のロボットとして描かれる。ここが手塚治虫の人間的な『アトム』や人間を目指す石ノ森『キカイダー』とは大きく違うところで横山氏は人間的なロボットはついに描かなかったのではなかろうか。

いわば無機質機械萌えがあったのではないかと思う。

そもそも機械萌えの方へは別に例を挙げる間でもないだろうが五木寛之に『我が憎しみのイカロス』という短編がある。少年が自動車BMWに欲情する話なのだ。

この小説が如何にエロチックであるかと感じながら巨大ロボットに思いを馳せなかったのは私の想像力の至らなさに尽きるのだけど『鉄人』にしろ『ジャイアントロボ』にしろ本作『ダイモス』にしろ横山氏が一番萌えるのは少年と巨大ロボットの関係性への萌えだったはずということに今更ながら気づいたわけなのだ。

 

という説明、そもそも少年と巨大ロボット萌えの方々には「遅いよ苦笑」なのだろうけどやっと感覚として理解したのでお許し願いたい。

 

というかこのダイモスやたらと美形である。

眉目秀麗しかも筋骨隆々。セクシーどころではない。

真介を守ろうとしている感じ?たくましい脚はむしろ人間的だ。

眼が入ると少し人間性を感じてしまう。

可愛い少年と巨大ロボットの関係性に早く気づけよ私。

そこが一番の萌えポイントだろが。ああ。

 

横山先生の性癖、ここだったんだと今頃になって・・・ううう。

バカバカ。

 

まあこういう髭の紳士なんかが出てきて目を奪われてしまうからなあ。

これはこれで性癖かもだが。

(どっちの?)

 

こういうのも性癖の一つであろう。

少年をつかむ巨大な手。

 

ううむ。

横山光輝の「巨大ロボットと少年」という性癖を多くの日本男児が共感したからこそ横山光輝は巨匠となり得たのではないか。

女子でいるのか、よく知らない。

 

しかしかつて『フランケンシュタイン』で怪物が無垢な少女に心を開いたという物語が(小説でもか?映画のみか?)あったのを思い出すべきだった。

 

少女ではなくあくまでも少年というのが横山作品でもあるのだよなあ。