おっと、原作:小栗虫太郎だった。横山先生にはけっこう砂漠の話がある。
そもそも『バビル2世』が砂漠の話だったものな。「砂の嵐に隠された♪」
ネタバレしますのでご注意を。
一度本作を読み通したのだけどかなりシンプルな探検もので(これも昨日に引き続き当時流行りの冒険ものということなのかな)(1969年週刊少年キング)これが原作小説でどのように執筆されているかが気になりかなりお手頃な値段でデジタル化されていたので購入。驚いた。
もし原作から読んでいたらかなり激怒案件かもしれない。
しかし私は横山作品目的なので激怒はしない。
むしろこの小栗作品の妖しげな雰囲気を消し去ってあのような単純な探検物語にできたものだと感心する。
例によって原作ではステラという魅力的な少女が物語の筋となって登場するにもかかわらず横山版では完膚なきまでに抜き取られている。
この美少女をどうして排除できるのか、普通の人はこの少女を描きたいために作品にしそうなものなのだが。
まあ横山氏にとっての魅力はこの物語に書かれる「ショット・エル・ジェリッド」という名の塩湖そのものなのだろう。ステキな名前ではないか。
そこを通る人間は吹きすさぶ塩の風を吸い込み絶えざる渇きに苦しむという、そんな恐ろしい道を進む男たちを描きたいがためにのみ描いたのだろう。
そして目的地の名は「大暗黒」
今まで何組かの探検隊が向かったが誰ひとり帰ってきた者はおらず今ではそばに近づこうというものさえいなかった、というフレーズも横山作品で何度も目にしたことがあったのではなかろうか。
とにかくそういう「困難の道を行く男たち」こそが目的なのだ。
しかしこの物語かなり危うい前提で成り立っている。
主人公・山座が従う「先生」の探検成功の確信は90パーセントだという。どこから出てきた数字なのか。
私も決してこういう話に興味がないわけじゃない。だけどねえ。物凄く頼りない先生だ。先生の怪しい説明に聞き入る山座。
案外信じてない山座www不安そうwwwwww
しかし山座は先生に期待する。(日本に帰るのは今よ)
山座はいったい何が目的なのか。
山座の先生は当地に雇った人夫とボアルネーという男と共に「大暗黒」へと向かう。
「大暗黒」へ行くのを嫌がる男たちを「財宝がある」と騙して進んだものの目的はばれ塩砂の竜巻に襲われ残った者たちでなんとか「大暗黒」に到着した。
山座と先生が眠っている間にボアルネーと人夫たちはいなくなっていた。どうやら財宝欲しさに先に行動を起こしたのだろう。
ふたりが捜索を開始すると大きな滝がありその裏側は洞窟となっていた。
その先にはなんと「海」があったのだ。
驚く山座たちは太鼓の響きを耳にする。
そこには目が退化した人々が儀式を行っていたのだ。見ると先駆けをした人夫とボアルネーが生贄となり巨大な龍(?)に食べられてしまった。
逃げ出そうとしたふたりは次々と槍を受けてしまう。
先生は龍に食べられてしまうが山座が必死で外へと出た。
しかしそこには果てしないショット・エル・ジェリッドが続くのだ。
というこれも横山作品に多いエンディングである。
原作はこれではないのでやはり横山氏の好きな終わり方なんだろう。
私も決して嫌いではない。
「ショット・エル・ジェリッド」という言葉は何度も出てくるのでやはり好きな響きなのではないかと思う。
というなら原作ではタイトル「大暗黒」の横に「ラ・オスクリダット・グランデ」と振られていてこちらもかっこいいのに省かれてしまったのは惜しい。
さらに「沙漠下の海(フェルサンデテン・メール)」とか延々と続く外来語が心を引き寄せる。原作はそのまま描いたらかなり長くなってしまうのを横山氏は簡潔にまとめてしまっている。その技量にも驚くし美少女を省略する感性にも驚く。
まじで要らないんだな。
本作、あまり書くこともない、と思っていたのに意外にも長くなってしまった。
数ある横山作品としてはあまり触れられることもない本作なのかもしれないが『DUNE砂の惑星』にはまった自分としては「沙漠に憧れる感性」というものにも共感してしまうのだ。水が少ない世界には行きたくないんだけどだからこそ物語として惹かれるのかもしれない。