ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第三十四巻

龐統士元。表紙絵初登場。この表情は鬼気迫っています。

諸葛亮が伏竜なら龐統鳳雛と呼ばれた智者です。

蜀へ入った玄徳には彼が随行しました。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

酔いつぶれて眠ってしまった張松の胸から落ちた玄徳への手紙を兄・張粛は読み劉璋へ届ける。お人好しと言ってもいい劉璋もさすがに張松の裏切りに怒り処刑を命じた。

良いキャラクターだと思った張松さんがあっという間に殺されてしまった。残念です。しかしお兄さんに密通されるとは、悲しい。

 

こうして劉璋は同門である劉備玄徳とついに反目する形になってしまった。しかしこれ呉からの手紙のせいじゃなく内部分裂です。

 

さて劉璋は玄徳を討つ決意をする。そこで声をあげたのが楊懐であった。

これは玄徳と龐統が話し合った通りになっていきますな。

荊州に帰る振りをして涪水関を獲るために玄徳一行は向かっていた。

その時劉の字の旗竿が風に折れてしまう。凶兆を感じた玄徳に龐統は天が凶事を教えてくれた吉兆と読むべきでしょう、と明るく言う。

さしあたっては涪水関の楊懐・高沛が我が君の命を狙っているかもしれませぬ。

 

玄徳一行は涪水関の前に幕舎を張った。そこへ楊懐・高沛が到着し別れの盃をたまわりたいと願い出る。

ふたりは玄徳を殺害しようとして逆に殺される。しかし供の者たちは玄徳に逆らう気はないと言って味方となった。

彼らを使って龐統は涪水関の門を開けさせる。涪水関はあっけなく玄徳の手に落ちた。

 

この顛末を知った劉璋は慌てて四人の将に五万の兵を与えて玄徳攻略に向かわせた。

ところがこの四将軍途中で「錦屏山に紫虚上人という運勢を当てる行者がいるから会て勝敗を占ってもらおう」と向かうのだ。おいおい。

四将軍は連れ立って上人に蜀の運命を占ってもらう。

上人は「雛鳳地に落ち臥龍天に昇る」と書き「定まれる業は逃げられぬものじゃ」と答えた。

四将軍は「良い予言ではない」と言いながらも「気にするな早く進もう」と馬を駆けさせた。

いやいやこれ蜀より玄徳側の問題だよ。嫌な予言である。

 

四将軍は雒県の要害・雒城に入る。

 

さて余談ながらここで私としては先日出会ったネット記事を思い出します。

www.rekishijin.com

 

横山光輝氏が昭和60年1985年に中国・四川を訪問されたという記事です。なにしろ中国と日本は国交断絶という時期があった後にやっと横山先生は取材旅行をすることができたわけです。つまりそれまでは数少ない資料と想像力で描かれていたwという壮絶な状況だったのですね。ほんとに凄い。

で、この記事によると横山先生は四川省に訪れて辛すぎる四川料理の洗礼を受けられたようですwそして四川つまり蜀の大自然を体感された。確かにこの強烈な大自然の中で戦うのがいかに凄まじいことか実感されたという記事でした。

とはいえ旅行時期が昭和60年。連載は昭和46年から62年までとなっていますから完成より二年前。今私が読んでいる「蜀」の場面ではまだ実感されていないはずですね。

それでこの生き生きとしたアクションが描けてしまうのが横山光輝の才能と魅力としか言いようがありません。

この記事で刮目すべきはやはりこの先生の言葉。

「いちばん驚いたのは、やっぱり自然ですね。諸葛亮孔明がよくダムを作って河をせき止めて、洪水を起こしたりするでしょう。最初、あんなに簡単に洪水を起こせるのかなと思ってたんですよ。城が沈むわけですからね。それで実際中国の河と雨季っていうものを見て、これはこの時期にこの辺が雨季になるなと知ってれば、作戦も確かにそうなるだろうなぁと。それでああいうスケール感が出てくるんですよね」

ふむう。なるほどと思ってしまいます。

あんな簡単に洪水を起こせるのかなと思いつつも迫力ある場面が描けるw

 

さて余談長くなってしまいました。本編に戻りましょう。

 

雒城に入った四将軍は作戦を立てる。

ふたりはこの雒城に残りふたりは前方の山間に陣を作り敵を防いでは。

鄧賢と冷苞が外へ出ることになった。

涪城では玄徳らが軍議を開いていた。

四将軍の作戦が報じられ玄徳は「この二か所を奪い取った者は第一の軍功だのう」と龐統に言う。「誰かそこへ向かう者は」の問いかけに真っ先に答えたのが老将軍・黄忠であった。「それがしが参りとうござる」これに玄徳は頷くが待ったをかけたのが魏延である。すでに玄徳から軍令を賜った後での横やりに黄忠はむっとする。魏延黄忠が争うのを玄徳は𠮟りつける。が、龐統はこれを制して「これほど熱望しているのであるならそれを生かしましょう。蜀の将軍は左右二翼に分かれて陣取っています。こちらも二手に分かれ早く味方の旗を揚げた者を第一の功名とすれば」と提案する。(さすが)

これには玄徳も感心し二将軍にそのように命じた。

が、龐統は二将軍の功名心を案じて玄徳にも彼らの後陣につくことを願う。玄徳は劉封関平を引き連れ出兵した。

 

一方魏延はやはり抜け駆けを計画していた。夜襲において黄忠老将軍が進軍するより早く出て両方の陣を奪い取って見せると考えたのだ。

真夜中、魏延は命令された鄧賢陣ではなく冷苞陣へとまず進軍する。

が冷苞は眠ってはおらず待ち構えていた。たちまち討ちあいとなるが敵は伏兵を置いていて挟み撃ちとなり魏延はたまらず引き揚げの号令をかける。

しかしそこへ鄧賢の兵も駆け付けてきて魏延は襲われ落馬させられ追い詰められた。そこへ矢が飛んできて「黄忠ここにあり。ひるむな魏延」と掛け声があがった。

老将軍が進軍すると冷苞はたじたじとなり自陣に戻るのをあきらめ鄧賢の陣に駆け込んだ。

しかしそこにはすでに劉備の旗が翻っていたのだ。

 

その時魏延は敗北感に打ちのめされていた。功を焦って逆に黄忠に名を成さしめてしまったようなものだ。そこへ冷苞が雒城へ引き上げるために戻ってきた。

魏延はこれで面目が立つと思い冷苞を生け捕りにする。

魏延は大満足で陣に引き返した。

玄徳はこの時すぐ「免死」の旗を立てた。降伏する者はすべて殺害せぬという意味の旗である。このため蜀の兵は続々と降伏してきた。玄徳は降伏してきた者に故郷に帰りたい者は帰ってよいとした。この通達に降伏者はドッと喜びの声をあげた。恩徳を深く感じ玄徳軍に加えてくれるように頼む者も多数いた。

第一戦は玄徳軍の大勝であった。

 

黄忠魏延の抜け駆けを軍律違反として玄徳に裁きを求めた。

魏延を呼ぶと魏延は生け捕った冷苞を連れて参じた。

玄徳は「魏延の死刑はかわいそうじゃのう」と思い「余の前で黄忠に感謝しなさい」と命じた。

魏延は手を合わせ礼を述べる。

玄徳はさらに「もう一言わびよ」と言う。

抜け駆けのことだな、と察した魏延は「若輩のため気のみはやって危地に陥った。しかしこれも見な君恩に応えんためのみどうかお許し願いたい」これには黄忠も「むむ」としか言えない。

玄徳はさらに「黄忠そちのこの度の働きは見事である。目指す成都に入城したあかつきには重く賞すであろう」と述べ黄忠もこれを受けた。

これには龐統も「見事な裁き」と感銘を受ける。

 

玄徳は冷苞の縄を解き雒城に戻って友を口説き無血開城してもらえまいかと提言したのであった。冷苞はこれを受諾する。

玄徳は冷苞に衣服と馬を与えて戻らせた。

魏延はこれを見て「帰ってはきませんぞ」と言ったが玄徳は「帰らなけらば彼が信義を失うのであり余の仁愛に傷はつかぬ」そして「さあさあ次の手柄は誰かな」と手招きをしたのであった。

 

雒城に戻った冷苞は残った二将軍に「番兵を斬って逃げてきた」と虚偽を伝える。

そして「今度は玄徳軍を痛い目にあわせてやる」と豪語した。

どうやら約束は反故にしたらしい。

さらに残った三将軍は援軍を求め兵力を強化した。その上で軍議を行う。

冷苞と鄧賢が築いた陣に魏延黄忠が守っているのが報じられるとひとりの将が提案した。そこは低地、涪江の堤防を決潰させればたちまち湖の底となる。

五千の兵で鋤鍬部隊が組まれた。

 

玄徳の陣では漢中の張魯による葭萌関攻撃が案じられていた。呉の孫権が援助をしているという報告が入ったのだ。

張魯葭萌関を奪取したら玄徳らは孤立し荊州にも帰れなくなってしまう。

龐統もすぐに兵を向かわせることを進言。孟達に任命した。

 

ひとまず仕事を終えたと龐統が帰宅すると変な客が居間に寝転がっていた。

その男は酒と料理を所望し満腹するとまた横になってしまった。

困った龐統は法正を呼ぶ。

法正はその男が永年という名士だと龐統に紹介した。

永年は龐統法正に連れられ玄徳に会いに行く。

永年は黄忠魏延の陣は死地にさらされていると知らせる。涪江の堤防を破ればあの地は湖となり誰ひとり助からぬでしょう。玄徳はすぐさまこの言葉を両陣に伝えさせた。

 

えええ~~ありがたいけど早く言ってほしいなあwしかしああしなければ「変な人」として追い出され逆に遅くなったのかなあ。おもしろかったからいいか。

 

かくして双方の攻防が始まった。鋤鍬部隊の準備は整ったが玄徳軍が堤防の見回りを厳しくしており五千の部隊が近づくのは無理という状態になったのだ。

とかくするうちに一夜風雨が吹きすさんだ。「今夜しかない」

吹きすさぶ風雨の中五千の鋤鍬部隊がひっそりと堤防に向かって進み始めたのである。