読了。面白かったです。
ではネタバレです。ご注意を。
もう映画はどうでもよくなってしまいました。
優れた小説が原作であってもどこを選択していくかで作品はまったく違うものになってしまうのです。
柏木卓也、そして神原和彦、野田健一という三人がこの物語の中心であり藤野涼子という女神によって導かれ裁かれていくという仕組みをあり得ないほどの緻密な設定で構築していった作品でした。
作者が思春期の懊悩を裁判という形で思考していく、つまり脳内で裁判をしていったということではないのでしょうか。
自殺を自死と言い換える、という動きがあるのですがこの小説では逆に自分自身を殺した自分殺害であるという結論に導いていきます。
柏木卓也という少年は関わった教師や友人を追い詰めてしまいます。しかしその相手である滝沢先生や神原和彦にとって柏木卓也が単なる異常者として記憶から抹消されてしまうことはないのです。
彼らはずっとこの生徒・この友人を忘れはしないでしょう。
分かれた道を選んだ自分を思い出すでしょう。
そして再び彼のような存在に出会った時に彼らは思い出すのです。
素晴らしい映画を作る機会があったのに映画製作者はそれを捨ててしまいました。
残念ですがそれが現在の日本映画なのだとしか言えません。
この裁判が何のために行われたのか、それを考えるべきでした。
考えていたけど、出資者の了解が得られなかったという弁解は不必要です。
何らかの形で表現してもいなかったと思えるからです。
なにはともあれ宮部みゆき『ソロモンの偽証』は面白かったです。