今日、YouTubeで宮台真司さんの話を聞いていたら『銀河鉄道の夜』のもう一つの話を知ることができました。
仲良しのジョバンニとカンパネルラが祭りの夜に同級生たちとは離れてふたりだけで汽車に乗って銀河鉄道を旅していく、という幻想的なイメージはかつて日本文学にはあまり興味を持てなかった自分に共感を覚えさせた数少ない作品のひとつでした。
が、宮沢賢治は生存中にこの物語を完成させきれず推敲を重ねた未完の原稿が残されていると聞きます。
そして宮台さんによるとこのお話は初期型と後期型があるというのでした。
宮台さんは1966年に初めてこの小説を読んだそうですが、1968年に再読した時は話の順序が変わり内容も変化していたらしいのです。
その説明は巻末に記されていて賢治の弟や編集者たちの協議で物語の変更が成されたというのが判ったのですが、宮台さんはどうしても最初に読んだ形のものに宮沢賢治の意志はあったのではないかと確信している、というのです。
これは大変なことです。
私自身は後期型しか知らずそのうえで評価していたわけですが、宮台さんの説明によるとジョバンニとカムパネルラは仲の良い友達ではないし、後期型では最後に知ることになるカムパネルラの死がむしろ前半で訪れその後ふたりの銀河鉄道の旅になるというのです。
幻想的なイメージはさらに増していくようにも思われますが、仲良し友達を期待する面々には渋い展開とも感じます。とはいえ後期型でもジョバンニがカムパネルラを慕う気持ちと裏腹に彼が女の子と話し込んでいるのを辛く思ったりジョバンニがザネリたちにからかわれるのを止めきれないでいるカムパネルラの姿はあるのですから初期型と宮台さんがいう形は確かにあるように思えます。
下に宮台真司氏の言葉が記されているブログをリンクしています。
http://www.miyadai.com/rsd.php?itemid=563#trackback
そして宮台真司氏の話を聞いていて『ソロモンの偽証』の柏木と神原とを思い出してしまったのでした。
『ソロモンの偽証』も少年の死に対して友人が深く考えていく、という物語です。
魅力的な少年であり死を覗き込もうとしている柏木卓也は友人神原和彦を一種のゲームとして様々な場所を巡らせます。
その小さなゲームこそが『銀河鉄道の夜』とも言えるのではないでしょうか。
神原は柏木を見捨てられないと思ったからこそ柏木のゲームに乗っかるのですが最後に柏木を振り払い逃げ出してしまいます。
柏木と神原の関係もまた深い友情のようにも冷酷な関係のようにも思えどちらが真実なのか読者にもまた本人たちにも判らないのではないでしょうか。
読んですぐ『トーマの心臓』を思い出した、といったのですが、どの物語も少年期に友人の死を考えていく少年の物語なのです。
そしてどの物語も友人を死に追いやったのは主人公の少年なのだということになります。
宮台真司さんは『銀河鉄道の夜』初期型を「リグレット」の旅、と話されていますがその意味は「残念、後悔、悲嘆、哀悼」の旅、ということでしょうか。
同じく『トーマの心臓』も『ソロモンの偽証』も少年期に失われた親友への哀悼の旅の物語でありましょう。
これは後期型『銀河鉄道の夜』では思いつけなかったかもしれません。ちょうど『ソロモンの偽証』を読み終えた時に宮台真司さんの話を聞けたのは偶然とはいえ不思議なつながりを感じました。
それにしても宮台さんの『銀河鉄道の夜』初期型の話には衝撃を感じます。
説明だけでも想像はつきますが、宮台さんのいうとおりの初期型を手に取って読んでみたいのです。