ガエル記

散策

学校廃止論

中学生時期に性被害に遭ったという女性が40代になってやっとそのことを告発した、という報道を見て改めて「学校」という制度の廃止を考えてしまいます。

 

「学校の廃止」ということの意味は「規定による先生と生徒という上下関係の廃止」という意味なのです。

世の中には先生と生徒、という関係の感動が多く語られていて「先生と生徒の廃止」という事に抵抗を感じるかもしれませんが、その感動は学校という規則の中で無理に決められた先生と生徒でなくても生まれた感動なのではないでしょうか。

知識のある人がまだそれを持ちえない子供たち(子供でなくてもいいのですが)を教え導くことは大切で素晴らしいことです。そこに生まれる師弟愛の物語は感動的です。が、繰り返しますがその感動は教えられ成長する関係性への感動であり特に「学校」という規定の場所に限らずともいいのです。

 

一方、既定の学校という建物の中での先生と生徒という決められた上下関係によって「嫌でも従わなければならない」ことから生じてしまう優越感と隷属感は様々な弊害をもたらしてしまいます。

上であげた女性の話の中でも「教師という圧倒的に強い立場の大人に従属的になり、逃げ出せなかった」ということが述べられています。

この従属という感情はどこから生まれてくるのでしょう。

私たちは小学校に入ると「先生の言うことはよく聞いて良い子にならないといけません」「先生はお前たちの事を考えて叱っているのだ」「立派な人になるためには先生の言いつけを良く守りましょう」などと何度も何度も言われることが続きます。

今ではどうか判りませんが親が先生に「いう事を聞かないときは厳しく言ってやってください」男子なら「悪い時は叩いてかまいませんから」などと言うのをよく見かけました。自分の親ではなくても子供心に「そうなのだ。先生はそういう力を持っているのだ」と刷り込まれてしまいました。

 

誰かが誰かを従属する、そして従属される。それは両方にとって良いことではないのです。

確かに「学校」という場所は長い間それを通してきて大まかに言えば「それでよかった」ように思えていたのでしょう。

 

しかし「学校」内でのみ使われる(例外はありますが)「いじめ」という言葉は明確に言えば「暴行」です。

精神的肉体的な暴行という犯罪を学校内でやれば「いじめ」という言葉で片付けられてしまいます。

ましてや教師が「暴行」をしてもいじめですらなく、「教育」「躾」ということに長い間なっていました。

教育・しつけで頭を殴り、尻を叩き、水の入ったバケツを持って廊下に立たせ、或いはそこに正座させ、腕を直角に上げて教科書を持たせる。

給食を食べきれないと言っては泣くまで叱りつける、など言えばきりがない。それに対してさからうことなどありえなかったはずです。逆らうと激高した先生もいました。

そんな中で「性暴力」を受けても「先生のすることは教育でしつけであり、言うことを聞かなければ」となってしまうことを「それはおかしい」「なぜさからわなかったんだ」と何故いえるのでしょうか。

最初は話しかけられ、軽く触ったりされることから始まって「この子はおとなしくて逆らえないようだ」と先生も確かめるのではないでしょうか。

「家に来ないか」ということも断った子もいたでしょうし、何も考えず「先生が言われるのだから」と素直に従う子がいるまで繰り返したのではないですか。

 

いったい先生の方はそういった行為をどう考えて自分を説得していたのでしょう。なんだか小説にもよくあるじゃないか。これは青春のひとこまで彼女にとっても甘酸っぱい思い出になるんじゃないか。若き日の恋心だよ、というような自分勝手な妄想を作り上げてしまってはいなかったのでしょうか。

その少女自身も自分のしている行為がいったい何なのか、よくわかっていなかったのではないでしょうか。

しかしその少女も成長し自分で考えていくうちに「あれは先生という権威に屈服させられただけの行為にすぎなかった」と気づく。

自分自身が先生と同じ年齢、もしくはそれを越えたのかもしれない、そうなってみてあの時自分と同じ年齢の少女をみたらまるで幼い子供ではないか。何も知らず、何の抵抗もできない子供に対し、あの教師はなんということをしでかしたのか。

そして自分が声を上げなかったことで自分の後にも同じような屈辱と嫌悪感を与えられていく少女たちが何人もいたのだ。

そうあの女性がは思ったのではないでしょうか。

 

40歳を越えての告発。「学校」側は彼女に対し「それはもう時効だ」と言ったそうです。つまり事実だった、ということですか。

「未成年と知りつつ関係を迫り、その女性が応じてしまったことはない。その女性はPTSDを発症したことはない。事実無根だ」

なぜ被害者が「応じてしまったことはない。PTSDを発症したことはない」と言っているのか、理解に苦しみます。他人の心理が察知できるのですか。

 

被害者にとっては重大な恥辱であり、顔出し名乗りなどできないだろう、ということが今までこういった先生から生徒への性暴力をうやむやにしてきました。

女性が顔を出して名乗り上げたことは物凄い勇気です。

報道に寄せられたコメントがこれまでによく見られた「今更遅い」「冤罪じゃないか」という言葉が少なくなり、女性への共感や励ましが多かったこともこういった報道が多くなり、人々の関心が深まり情報が広がったことが感じられます。

これからこういう告発は増えていくでしょう。

この女性がとても落ち着いた態度でしっかりと話されていたのも印象的でした。

この事件自体は時効であるという裁判結果になってしまうのかもしれませんが、女性が言われているように続くかもしれなかったその教師による被害者をこれで抑えられることを願いたいです。(その教師はいまだ教鞭をとっているのです)

そして悲しい表現ですが抑制効果もあるかもしれません。

 

「学校という制度」を無くすことがイコール少女への性暴力を減らすことではないでしょうが、学校内のどうしようもない師弟関係という上下差別による暴力を少なくしていくことはどうにかして工夫しなければならないのではないでしょうか。

昔よりそういった先生への敬いなどなくなったよ、という人もいますが、それでも先生う権威からくる押さえつけがなくなってしまうことはないでしょう。

それは先生にとっても苦悩であるはずです。

その権威を自分が持っているかどうかを常に確認してしまいたくなるからです。

そんな権威など存在しないのです。させてはいけないのです。

 

私は「学校制度」などなくして単なる塾のようなものが存在するだけで先生という言葉も生徒という言葉も無くしてしまった方が良いと考えています。

今まで通り22歳までの学業(長くなっても短くてもいいが)の中で必須や自由選択のカリキュラムを習得し、一定のポイントごとに試験を受けて昇級し就職する際にこれだけの勉学をしたという肩書を見せる。より勉強したいものはもっと長く勉学し、16歳以上で義務教育を終えていれば就職できるという制度にする。学び舎だとか、先輩後輩だとか、恩師だとかは勝手に個々が感じるものであり行政からおしつけられはしない。

先生・教師の権威などはなくなり、ただ「カリキュラムを教える人」と「授業を受ける人」というだけの関係になる。クラスの中は同年齢だけでなく試験を受けるための様々な年齢の人がいる。呼び方はもちろん名前で呼ぶだけ。先生でなく○○さんと呼べばいい。

そこでなにかしらのいざこざが起きた場合はもちろんその場所(名前は学校でも塾でもスクールでもなんでも)の責任者や警察に訴え犯罪として裁く。いじめではない。犯罪です。

ハラスメントも同じく。

その問題の責任は個々にあり、学校側がしつけや教育の責任を負うことはない。

だから「この学校にいじめはありません」などという誤魔化しの弁明などしなくていい。

つまり先生には生徒への何の責任もない。代わりに何の権威もない。

生徒も先生に責任を求められない。代わりに従属する必要はない。嫌なら嫌と言ってよい。もちろん先生に暴力をふるえばそれは単に犯罪として裁かれます。

 

つまり学校という特別な人間関係、上下関係、縛り、絆、は何もなくなる。

全てがフラットで個々人の関係にする。義務教育、子供に対し一定期間と一定の量のカリキュラムを受けさせねばならない、というものは存続する。

 

男性女性の関係もフラットで対等であるということを義務づけて欲しい。誰が誰に対しても従属しない。させない。それがあたりまえでいいのではないでしょうか。