ガエル記

散策

ちいさな親切

倫理、ということについて考えていきたい、と思ったので身近で感じたことから書いてみようかと思います。

人間生活の秩序つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道と書かれています。簡単に言えば、人の交わりの中でのなすべきこと、と言うのでしょうか。

そういうと子供の頃からの大問題だった「バスや電車の中でお年寄りに席を譲る」という項目が思い出されます。

内気で話下手な日本人が一番苦手とする課題なのかもしれませんが、この問題、子供時代には気持ちはあっても勇気が出ない、ということでかなりハードルの高いことでもあり「思いやりを持つ人間になる」第一歩であり重大な試験でもあったように思えます。私自身といえばなかなか電車・バスに乗らないし乗ったら乗ったでそういう機会も少なくしかしその機会に巡り合ってもやはりやれたかどうか、記憶がありません。

(今現在は昔以上に公共の乗り物に乗らないので何とも言えませんが勇気だけはあると思っています。ただし逆に譲られそうな年齢になってきました)

今も子供たちにとっては問題であってほしいと願っていますが、ツイッターなどを見ていると席を譲るどころか妊婦さんや車いすの方に対し、「迷惑」「時間を考えろ」「別の乗り物にしろ」などと言う或いは言われたという言葉が並んでいます。

子供時代にあれほど思い悩んだ倫理学はいったいどこへ行ってしまったのでしょうか。

先日ケント・ギルバート氏の本を読んでいたら「日本人は素晴らしい。買い物の時、一万円を出すときに「すみません、大きいのしかなくて」と謝る。こんな心遣いをするのは世界中で日本人だけだ」と書かれていました。どういうわけか、他でもネトウヨ系の方はこの「大きいのしかなくて」と謝る日本人を物凄く誇りに思っているようなのですが、こういう気づかいは果たして特別な美徳なのでしょうか?

私は商売をしているので実体験していますが「一万円しかなくて」と言われることに感激はしません。はっきり言って一番良いのはぴったりの金額が払えるよう小銭を用意してきてくれていることなのは当然です。でも店としてお釣りを用意しているのもまた当然なので一万円を出されるのは当然の行為としか思っていません。

出し方が乱暴でもなければそこに嫌な気持ちを持つわけはないし、正直に言うと余計なセリフが増えるだけでどうでもいいことなのです。

むしろ日本人の美徳として言えるようになりたいのはやっぱり「日本の電車やバスに乗りと皆が席を譲ってくれるし子供が泣いても皆であやしてくれる。凄く良い人ばかりだよ」という賛辞ではないでしょうか。

一万円を出すときに「あー大きいのくずされちゃうな」とか「ここで両替しちゃえ」という気持ちを持つことが皆無だとは言えないし、「すみません」という言葉にそういう下心が見え隠れしてしまうのを隠す意味合いがあることはなんとなく皆思っているでしょう。それはそれで別に構わないのですが。

そんなどうでもいいことより、「妊婦さんやお年寄りや弱者のかたに電車・バスで席を譲る。泣く子供がいても許すだけじゃなくてみんなであやしてあげる」という国のほうが絶対に良いのです。

「一万円すみません」より「この席どうぞ」のほうが良いのです。

 

ましてや「痴漢です。助けて」の声に「電車が遅れる」「冤罪だろ」という声が真っ先に上がる国に倫理があるとは思えません。

 

言うだけでなく実行が大切、と思っていますが私はバス・電車に乗らないのでどうもそっちでは実行が伴いません。せめてものつぐないにスーパーなどに行ったとき困ってるお年寄りがいないか、気にしています。(そのくらいしか外出していないのです)

自動ドアじゃない扉があってとても重いのですよね。後は物を落としたりしている時さっと取ってあげられるか、とか。

でもまあうちの方は田舎のせいなのか、皆さん優しい人が多いように思います。

 

救急車に道を譲る、など当たり前と思っていたらそういうことすら守られていない、と聞き、本当にこの国大丈夫なのかなと思ってしまいます。

こういうの特別なことではなくさっとやれるのがかっこいいことなのです。自慢などしなくても当たり前にさらっとやれるようになりたいのです。