「アドベンチャータイム」を観ながら書いています。
昨日、実は「ロリコン」について書こうかなと思っていました。
「家父長制」から連想されるワードは「ロリコン」なのです。
「家父長制」がそのまま「ロリコン」になるわけではないですが、男女差別と権力による支配が女性の反抗的態度によって阻止もしくは抵抗を受けた時。家父長頭脳の男性が選択しやすいのはより支配しやすい低年齢層に向くのは必至です。
家父長制に呪縛されている山岸凉子氏のマンガの男性がいつも年若い女性に魅力を求める、ということでヒロインが苦しむのを見ると判りやすいのですね。
山岸氏が家父長男性に理想を求めていなければ必ずしも男性が年若い女性のみを求めるわけではないのに年若い女性を求める家父長男を好きになってしまう山岸氏の女性性は常に矛盾に苦しんでしまうのです。
昨日山本寛氏のブログ記事に衝撃を受けてしまったのは、ちょうど日本のアニメ作品があまりにもそういったロリコン思考、家父長制でありたいのにそれが不可能もしくはなかなかうまくいかない男性たちが安易に進んでしまうロリコン志向、少なくとも弱そうな女性嗜好、男性にとって都合の良い女性嗜好に偏りすぎていることを書こうとしていたからなのでした。
私は山本寛氏、という方をまったく知らなかったので昨日は彼に関する動画などを見ていました。といっても昨日初めて知った人を短い時間で観ただけですから理解したとは言えないでしょう。それでもちょうどいいことに私が尊敬しています岡田斗司夫さんと対談している動画を見たり彼自身の講演を聞いたりヤマカン監督アニメ作品の一部を観たりしました。
彼のブログ記事というのは今読むのはきついものがあります。
山本氏はもともと京都アニメーションでアニメ作品の演出を仕事としてきた人だといいます。
先日の京アニの怖ろしい惨事の後、彼としてはしばらくの時間を待ってからということのようですが、ファンではない私にとってもまだ生々しい記憶として残る時間帯です。
山本氏のブログ記事を抜粋すると
京アニは2007年、匿名掲示板の「狂気」と結託し、僕をアニメ制作の最前線から引きずり降ろした。
ここで言いたいのは、僕を引きずり降ろしたことへの恨み事ではなく、彼らが「狂気」と結託した、という事実である。
「狂気」とはなんなのか。
彼自身がブログ内で提示している彼の講演の動画を見て、上で書いたようにいくつかの山本寛氏に関するものを読み、見た後で感じたのは何とも言えない矛盾した感覚でした。
彼が言う「アニメイズデッド」アニメは死んだ、とは彼が好きなアニメが死んだのであってアニメは死んではいないわけです。
この時期にこれを書くのは本当はいたたまれないことでもありますが彼のブログ記事を見てあまりにも矛盾を感じているので書いてみます。
京都アニメーションの作品について今現在の報道では「アニメファンなら嫌いな人はいない」「誰もが誇る日本アニメの最高峰」という賛辞が必ずついているのですが、正直私は京都アニメーション作品を良いと思ったことはありません。
アニメファンではあるのでまずはアニメがあれば「どんなものかな」とチラ見をするわけですね。
今回これを書くために「けいおん!」を選択してみました。
まずタイトル画面で登場している少女たちの姿を見た段階でかなりきつい抵抗を感じます。見開いた大きな目、細くて小さな手足。映像を再生すると聞こえてくる甲高い声、しぐさも動きも表情も「可愛い」という形容が必ずつくだろう、けれど私にはそれらが不気味としか思えないのです。
たどたどしい動きでギターやドラムを弾く少女たち。なのに視線は開いている少女の太ももを辿ります。そうしたショットはなぜ必要とされるのでしょうか。
確かに映像は整えられ色彩も演出も上品な綺麗さがありますが、私にはそれらを自分の好みとして感じ取ることができません。
が、それは私自身の感覚なのです。
たぶん、日本の多くのアニメファン、そして山本氏が怖れている京アニオタクたちはこういった京アニの登場人物や作品の持ち味を賛辞しているのでしょう。ちらりと見せるエロチシズムは可愛らしいものとして受け入れられているのだと思いますが、私はそれが気持ち悪い。
京アニの描く少女たちのかわいらしさ、繊細さ、清純さ、でもそこにある少女のエロチシズムは現在のオタクたちの理想なのだろうと思います。
私にはそれらをすべて投げ捨ててしまいたい衝動にかられますが。
山本氏の言葉によれば「京アニスタッフたちはそういった「オタクたち」の賛辞の過熱を喜ばしく思い彼らがより喜ぶ方へと舵を切った」ということになるのでしょう。
それを感じた「オタクたち」はさらにより自分たちの欲求を加熱していく。
「おまえら(京アニ)の作品をおれたちの神として認めよう。そのかわりもっと俺たちの願いをきけ。信奉者である俺たちの要求を聞けばもっとおまえらを神として仰ぐ」
ということなのだと思います。
「俺たち」の中には女性もいるのでしょうが、そうした女性たちの感性は私には歪んでいるように思えてなりません。
京アニのキャラ設定は「家父長制から脱落した」男性向けであると思うのです。
家父長制は男性には高い能力と強い意志を求めます。高い能力を皆が持てるわけではありませんがそれがないと判っても自己肯定できる強い意志を持っていなければなりません。それに脱落することは男性にとってはきついことです。
そしてそんな脱落男性を救い癒してくれるような「優しい女性」は今はいません。女性も彼らのライバルでもあるからです。
彼らを救い癒してくれるのはアニメ作品の少女たちだけなのです。
京アニ作品の登場人物は、清純でありながら同時にエロチックである女子高生年齢と決まっています。甘いものが大好きでもなぜか太ってはいません。小柄で華奢なのです。性格は優しく温和で怒ったとしても男性が見て怖くない範囲内であります。泣き顔もいじらしく愛らしい。いつもあどけない焦点が合わないような表情をしています。
日本のエロコンテンツが求めているものがすべて京アニ作品の中にあるのです。
男子高校生の作品もあります。「Free! 」という美少年ばかり登場する高校水泳部の話でした。他の作品の女子を男子に変換しただけと言っていいでしょう。
京アニ作品が日常系が多いのも日常的なほど一般の人間にはよりエロチックに感じるからであり一般人はSFや歴史ものにエロを感じにくいという定説があるからです。
しかし日本のアニメ界はすべて京アニ路線なわけではありません。山本寛氏が何故京アニで演出をしていたのか。自ら「ハルヒ」を作っていた時自身もそのことに満足していたと氏は語っています。
しかし日本のアニメには今年放送の作品でも「進撃の巨人」もあり「ガンダムオリジン」もありもちろん「どろろ」もありますが、山本氏はこういうジャンルには興味がないようです。
岡田氏との対談で彼は「君の名は」「世界の片隅に」を良作としてあげていますが、私はこの二作品も女性性を犠牲にしている作品だと思っています。この二作品が持つ女性性の不気味さを良いと思う感性はどうしたって同じ経路をたどるのではないでしょうか。
つまり山本氏は根本的に「女性を犠牲にする作品」が好きなのです。
ではなぜ「京アニが狂気と結託した」ことを非難できるのでしょうか。
山本氏のブログ記事は怖ろしく悲しい気持ちを引き出しますが、書いていることは私はむしろ賛同できます。
私がもともと思っていたことと同じなのですから。
ですが、山本氏の感性は明らかにそちらの方へ向いています。
「君の名は。」「世界の片隅に」を良作とし、「傷ついた心が癒された。希望を与えてくれた」とする山本氏の女性観は結局同じ道へと向いているように思えてなりません。
私がなぜ冒頭で「アドベンチャータイム」を観ながら書き始めたか(今はちょっと中断して夢中で書いてますが)
アニメ「アドベンチャータイム」は女性性を攻撃していないからです。
絵もキャラ設定も非常に可愛らしいデザインであり女性は女性らしく綺麗でドレスをきていても「アドベンチャータイム」の女性は媚びていません。
日本のアニメ作品でも富野由悠季監督「ガンダム」「進撃の巨人」の女性たちには私がぞっとしてしまう気持ち悪さがありません。
京都アニメーションの悲劇は何かと引き換えにできるようなものではなくあまりにも気の毒で泣けてしまいます。
一方で山本寛氏のブログ記事は賛同できるのですがその氏ご自身の方向性は本当に良い方向へと行っているのでしょうか。
氏の一連の言葉を聞いているとどうしてもそちらは賛成できる道ではないように思えるのです。
岡田さんが「アドベンチャータイム」の話をした時に山本氏はまったく興味がない顔をしていました。
確かに人の好みは自由です。でも「アドベンチャータイム」を無視してしまう感性は日本生存オタクの狂気と同じ方向性のように思えます。
あの作品の中にある女性性への価値観に共感せずして(フェイバリット作品にしなくてもいいから)良いアニメ作品が作れる気がしないのです。
もうすぐ(2020年1月)「映像研には手を出すな!」が湯浅政明監督でアニメ化されます。
私が女子高生アニメでこれほど期待する作品もありません。
もし山本氏が言う通り「京アニが狂気と結託した結果」というのであれば、まずは女性性の在り方を考えてみて欲しいのです。
日本のアニメの多くは今まったくそれを考えずに作っている気がします。狂気と決別すべきならば女性をどう思うのか、考えるのか、描くのか。
きちっと描いている人もいるのです。
そこを見ずして狂気と決別はできないのです。