なんとも不思議な味わいの映画でした。
うだつの上がらない40代の独身男性が養護施設にいる10歳の男の子を養子にしようと試みる物語です。
昔の話ならいざ知らず現在そういう設定にするのなら必ず中年男が児童性愛者ではないかと思われてしまうでしょうし実際作品中にそう勘繰られてしまうのをその男・グラハムが否定する、という描写が出てきます。少年ジェームズも仲間から陰口をたたかれているわけです。
この作品中ふたりの関係がそうした性愛であると示されているとは思いませんが今までに描かれた父と子の関係ともいえないつながりをこの物語は伝えているように思えます。
母親が自殺し父親が刑務所にいるという身の上のジェームズは父親と森の中で親密に暮らした数日と「俺だけを愛するんだ、他のヤツに気を許すな」という言葉が彼の支えとなっていますが時折自分の体を傷つけてしまうことが抑えられません。
一方中年男グラハムは母親を数年前に亡くしそのショックで痴ほう症となった父親の看病をしながら田舎の小さな店を経営しています。内気のせいもあり結婚しないまま年齢を重ね両親の期待を果たせなかったという負い目を感じていました。
自分自身は当たり前の幼少期だったと思い込んでいたのですがジェームズを養子にしてから思い出がよみがえってきます。両親はとても仲の良い夫婦だったのですが息子のグラハムにどこか冷めた感じがありました。かつてグラハムがとても楽しかったと思っていた父子の旅行を父親は嫌悪していたと知って彼は傷ついてしまうのですが、そうした嫌な記憶をグラハムはいつしかどこかに思いださないよう埋め込んでしまっていたのでした。
40代のグラハムと10歳のジェームズは、失われた母親と愛を求めながら完成できなかった父親、という共通の思いを持っていたのです。
ふたりは父と子になる、というよりも互いの存在でその満たされなかったものを補完しようとしていたのです。
しかしジェームズは実の父親から「自分以外を愛してはいけない、それはお前をダメにしてしまう」という呪いをかけられています。その強い枷のため彼は自分の手を叩き傷つけ血だらけにしてしまうのです。
一方グラハムはやっとつなぐことができた家族であるジェームズを失うことを恐れますがそれでも彼に対し誠実であろうと努力します。
突如登場した実の父親を隠すことなく彼に伝えるのです。ジェームズの父親は後数か月の命という病気を抱えていました。ジェームズは実の父親の出現とその様変わりに衝撃を受け家を飛び出しグラハムとキャンプした森の中に身を潜めてしまいます。
家の中の物を壊し、走っている車から飛び降りようとし、そして夜中に家を飛び出して森に潜んだジェームズを何度も許し救い出したグラハム。
この作品では父と子、という関係を模しているのですが複数の人間が関係を持つのはこうした過程を幾つも経て行くことなのです。
それを「面倒だ」と切り捨てるのか、離すまいと結びなおすのかで人生と人とのかかわりは違ってくるのでしょう。
グラハムとジェームズのかかわりと生活は父と子のようでいてそれとも違う何かであると思うし当然そうなるのです。
実の父親と息子が血縁、ということでつながっているのに対し、グラハムとジェームズはひとつひとつを決心し認識していかねばなりません。
ふたりはその積み重ねをやっていこうという道を選択したのです。
『赤毛のアン』では独身者同士であるカスバ―ト兄妹が最初仕事の手伝いのために男子を養子にしようとするところから物語が始まりました。
かつて多くの養子というのはそうした「家督相続」や家業を手伝う役目として縁組されることは当たり前にあったのでしょう。
しかし本作ではグラハムが店を経営してはいてもジェームズに店の手伝いや相続人として縁組する理由があるようには思えません。
こうした容姿の在り方は今後増えてくるのでは、とも思えますが冒頭で書いたようにどうしても血縁のない児童を保護下に入れる独身者には男女問わず性愛目的かという疑問が先に立ってしまうわけです。
そうした問題がクリアできるなら年齢の違う複数の人間との交流はとても意義のあるものだと思うのですが。
グラハムを演じたウィリアム・ハートがとてもよかったのです。
『蜘蛛女のキス』でも同じ獄房に入れられたふたりの男の物語で女装のトランスジェンダーを演じて話題となり多くの受賞をしましたがこうした繊細な演技が素晴らしい俳優です。