今まで何度か観賞しようとして挫折していたのですが昨日の『花筐』感動に力を借りて再挑戦してみました。
1977年公開当時私は大林監督が観客対象者に望んだ15歳以下だったわけですがその時観たとしてもこの映画を楽しめる才能はなかったように思えます。
今回なんとか鑑賞し終えましたが『花筐』の余力がなければ観続けたとは思えません。
確かに当時の古臭かった日本映画界に突然本作が投げ込まれた衝撃は大変なものだったのでしょう。
演技などなにもできないアイドル的な少女俳優を7人登場させストーリーもテーマも気が狂ってるとしか思えない滅茶苦茶なものでチープなCGが昔だからということではなくあえてふざけているように感じさせます。
当時としては固い伝統をぶっ壊す新しい感覚だったのでしょう。
しかし現在本作を観ればいかにも日本映画らしい王道を行っているように感じるのはどういうものでしょうか。
少女たちは男性観客のための生贄であり傷つくのも殺されるのも男性たちを喜ばせるための表現なのです。
その時大林宣彦監督が世界を変えたかのように思えたとしても少なくとも女性の表現としては何ら変わってはおらずむしろ悪化したのではないかと思えてきます。
昨日観た『花筐』にそうした気持ち悪さがなかったのはもちろん監督自身の変化なのでしょう。
露骨に言えば性欲が落ち着いたため、ということです。
『HOUSE』の脚本はポルノ方面で活躍された方のようですが完全なポルノ作品だと私には思えます。
7人の美少女たちはまさしく性的に消費されていきます。
だからこそ当時の古臭い日本映画界でメジャー作品として公開されたという皮肉でもあります。
大林作品がどうしても無理だったのは基本がそこにあったからなのでしょう。
時を経て最期の作品に近い『花筐』はそうした気持ち悪さが薄まってしまったから、というのはある種類の人にとっては残念であるのかもしれません。
とはいえ、この機会がなければ観なかっただろう本作を観終えられてよかったです。
日本映画界のエポックメーキングであるのは確かでしょうから。