ガエル記

散策

『天気の子』新海誠

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新海誠監督描く『天気の子』前作の『君の名は。』に引き続き大ヒットながら一方では「気持ち悪い」の大合唱になってしまうという凄い作品であり映画監督であります。

私もどんぴしゃで新海世界アンドその作品が気持ち悪くてなんだろう水を吸ったパンを触ってみないといけないみたいなおぞっとする感覚があります。

『君の名を。』で思い知らされていた自分としては『天気の子』を観るのには勇気が必要でしかも何度となく中断し今回やっと観終わりました。

なぜそれでも観ようとしたのかと言えば「一月万冊」で今一生氏が「この映画は家出をした少年たちをリアルに描いている作品」と語られていたので「そういう意味を知るためにもう一度」挑戦してみたのでした。

 

結果無理でした。

いくら居場所のない少年少女たちを描いた作品、と言われてもそれを観る前に触りたくない不気味なものに触れなければならずそれが耐えがたいほど神経を逆なでするのです。それは音楽監督RADWIMPSの楽曲・歌詞にも表れています。

いったいなぜ新海誠は今日本で一人のメジャークリエイターでありうるのかとさえ考えさせられます。

 

もう細かくは書きたくもないのですが主人公ホダカとヒナのセリフ、ふたりの表情動作、特にヒナのあの奇妙なしぐさ・走り方に反感を持たれてしまうのは当然なのになぜ新海監督はそれをどうしても描いてしまうのでしょうか。というよりそれを表現したいがために映像作家であるのでしょう。

 

さて言っても詮無い愚痴はここまでにします。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

本作を観てすぐに連想したのはここでしょう。

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サイボーグ009』009と002が落ちていく名場面です。しかしきっと新海監督は不満だったでしょう。なぜなら男同士ですから。

 

新海誠氏のプロフィールを見たら学生時代「宮沢賢治を研究したがあまり興味が持てなかった」と書かれています。これも当然です。宮沢賢治の作品は男女の恋愛的なものが電信柱くらいしかなく男性同士(ジョバンニとカムパネルラ、チュンセとポウセなど)の物語が多いわけです。

 

さらに『天気の子』に描かれた「好きな人の為に天候を変えてしまう」という話は今から40年ほど以前に『日出処の天子』で厩戸皇子が毛人の手を借りて成し遂げています。

これも男性から男性への愛を描いた場面です。

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これは『天気の子』とは逆に日照り続きに雨を降らせる話です。

厩戸皇子が毛人の思い人であるフツ姫を貶めるために雨を降らせるという場面です。

その後今度は雨が止まず人々が困るという展開になっていきます。

 

なんでしょうか。この男性同士の話にすべて拒否反応を示すような感じは。

それは私(たち)が新海作品に拒否反応を示すそれと似ているようにも思えます。

 

続くかもです。