『一度きりの大泉の話』感想はもう終わり、と思っていたのですがもう一度書くことになりました。
というかむしろ『一度きりの大泉の話』感想の感想です。
アマゾンレビューに書かれたレビューです。レビュー者の思いがかなりの長文に込められていて、私が読んだ時点で500に近い「役に立った」がついていました。
私も迫力におののきながらも読んだのですが疑問に感じる点もあったのでそれをここに書いてみようと思います。
補論追加までされている長文になるのですが筆者が後に行くにしたがってかなり感情的になっているのが気になります。「話が合わないのだから棲み分けよう」とした萩尾望都氏の判断に対して抑えようとしても激高していく様子なのです。
筆者自身
本書を読むと、増山法恵と竹宮惠子に同情してしまう。というのも、彼女たちはたぶん、私と同様に、親の愛を普通に受けて育ってきた「当たり前の人間」であり、当たり前の「欲望」を持っていたに過ぎない。
と書かれていますが、ここにヒントがあるように思えます。
文章からしても知的なレビュー筆者は増山・竹宮側の住人であり萩尾望都の国の住人ではないのでしょう。
自らも
私は萩尾望都のファンではない
と書かれているのですから。さらに
つまり、本書について、萩尾望都や竹宮惠子のファンに「ウケのいい(ロマンティックでナルシスティックな)評価」を語る気はなく、あくまでも本書を、1冊の「手記」として分析することになるだろう。
と前置きがあるのですがこれは蛇足に思えます。私もつい書いてしまうので気持ちはわかりますが。
しかしここでレビュー筆者は自分の分析はナルシスティックな評価ではない客観的見識に基づくものと書かれていると思われますが、先に書いたようにその分析は自分の立場から見た感情が作用しているものであり書き進めるにつれて加速しついには怒りが爆発していく極めて「自分に向けてのナルシスティックな評価」になっていると思えてしまうのです。
続いての
本書の狙いはいたってシンプルである。
要は、生きている関係者として、「大泉神話」なんてものは「御免こうむりたい」ということであり、中心的な当事者と目されていた者の立場から、それに対し、ガツンと太い釘を刺したということだ。
という分析も筆者の「自己の鋭い分析」への心酔を感じますがあまりに冷酷な叩きつける文章に身がすくむようです。
萩尾望都さんはもうこの件には関わりたくないと思われているはずなのでこの方の文章を読むこともないだろうということだけが頼みです。
萩尾さんとしては「ガツンと太い釘をさしてやった」というようなことではなく単純に「もう私をそっとしておいて」=Leave me alone
というだけではないのでしょうか。多くの萩尾ファンはそう受け取ったのですが、萩尾ファンでないこの方は「ガツンと釘をさした」と判断したのでしょうし、それでもいいのです。
萩尾作品『銀の三角』の中にディディンというとても心に残る人物がいます。
この話はつい先日書いたばかりの記事にも出したのですが、彼はパヴァーという不思議な学者のような男と契約をしていて「子孫が作れたら、できなくてもあと二十年もたったらわたしは小さな惑星をひとつパヴァーからもらえる」「それは太陽からとても遠い星で地表の地下には暗い川が流れている」「はやくその惑星へ行って暮らしたい、静かに終わりの日まで」と願っているのです。
私もこの話をとても羨ましく思っていてよく思い出します。
萩尾さんにとってはこの「子孫」の部分を「マンガ」に置き換えて考えているようにも思えます。
物凄く寂しく悲しい願いにも思えるのですが同時にほっとする気もするのです。
この話は萩尾さんの心の現れとも考えられます。なのでこの本が「ガツンと釘を刺した」とはとても言えなく、彼女の悲しい願いだと私は思っています。
さらにレビュー者の知的な分析は続いていきこう書いています。
そう、萩尾望都は、意外にも「母親からの承認を求めて、自立しようともがいた」アスカに似ているのだ。
そうでしょうか。私は萩尾さんの心理は「承認」などではなく「愛されたい」という気持ちだと思うのです。
ここでも竹宮・増山側の住人らしい知的判断がなされていますが萩尾さんの作品は一見理数派のようでいて実はとても情愛の感覚で描かれていると思うのです。ご両親からも理屈ではなく愛されたい、と思われていたのではないのでしょうか。
なので駆け引きができず単純に好きと言われれば嬉しく会いに来ないでといわれれば悲しい、そういうストレートな感情を持っているように感じます。
(そういえば竹宮惠子氏はかつて「好きという言葉を使わず「もう、きらいっ」という言葉で好きを表す、と書かれていました。萩尾望都さんには理解できないのかもしれません)
萩尾が、本書で何度も繰り返しているとおり「ちゃんと説明すれば良かった。私にはそれができなかった。波風を立てたくはなかった」というのは、彼女も縛られていた「女性ゆえの束縛」であり、「有名人ゆえの見栄」だったとも言えるだろう。
彼女たちが「世間に認知された、優れた作家」でなかったなら、もっと容易に喧嘩もできたのだが、残念なことに、彼女たちは、そうした「世間のイメージ」をぶっ潰すことができなかったし、やはりしたくなかった。
誰も注目していない「ただのおばさん」ならできたことを、彼女たちにはできなかったから、お互いに「イメージを壊さないように」と「本音を語る」ことを自制せざるを得なかったのだ。
実際、彼女たちに起こったことは、彼女たちが「優れた作家」であるという要素を除けば、ごくありふれた「育ちの違いによる、誤解と葛藤」にすぎなかったのである。
ここに至ってはレビュー者の勝手な思い込みでしかないと言えます。「有名人ゆえの見栄」は若干レビュー者の奇妙な妬みがあっておかしくもあります。
彼女たちはマンガ作家ではあって同時に普通の人でありえます。外出しただけで盗撮されるわけでもないでしょうし本人たちに意志があれば再会して話し合うことはできたはずです。それがなかったために本でのやりとりになってしまった、というだけのことです。
本文の結末
畢竟「自立」とは、萩尾が実践して見せたように、「嫌なものを見て、嫌なものを見せる」覚悟なのではないだろうか。
いや、嫌なものを見せる覚悟、など要りませんよ。迷惑ですよ。嫌なものも無理して見なくていいのでは。少なくとも作品上でやったなら実生活でやる必要はありません。
それは自立ではなく「変態行為」というものではないでしょうか。
ここで時間が来てしまったので後にさらに続けます。