世界は知らないことばかりです。
世界ならまだしも日本国内の大事故であるにもかかわらずこの事件についてまったく知らないままでいたことに唖然としています。
「日航機事故」といえば私たち世代から後であれば1985年(昭和60年)の御巣鷹を思い出してしまうのですが松本清張のこの本は1952年と書かれていて「?」となってしまったのです。
もちろん間違いなく1952年(昭和27年)に当時「もく星号」と愛称されていた日航機が
伊豆大島三原山噴火口付近に墜落した事故について書かれたものだったのでした、
さらに驚くのはタイトルが「墜落事故」ではなく『日航機「撃墜」事件』と鍵かっこ付きでつけられていることです。
「墜落事故」ではなく「撃墜事件」とされた松本清張氏独自の考察著書なのでした。
しかしこれも1985年の日航機事故が単なる事故ではなかったのではないかという様々な考察があるためにこの部分でも勘違いしてしまったのは確かなのです。
とはいえ世間一般で「もく星号墜落事故」とされているこの一件を「撃墜事件」と銘打って考察し書かれたのには松本清張氏の意志があったはずなのです。
それにしてもこの本を読んでいろいろ検索してみたりしたのですが驚くことばかりでした。
1952年、戦後7年目の日本はまだ飛行機を運行する権利がありませんでした。
日航機でありながら操縦士・副操縦士はアメリカ人であり管制官もアメリカ人によるものだったのでした。
日本人に許されているのは営業面と客室乗務員だけだったのです。
また乗客も運賃が高額のためもあって政治家や会社社長、裕福な芸能人などに限られておりほとんど男性客だったというのです。この機にも客室乗務員以外を除く女性客はひとりだけだったのです。(乗客は33人という数ではあるのですが)
また松本氏の著書には「その唯一の女性客が宝石デザイナーであり、当時の日本は宝石も限られていた」ことを書かれています。
事件だけでなく戦後間もない日本の状況にいろいろと思いを寄せてしまいました。
そしてやはり1985年の日航機事故との不思議な関係性も考えさせられます。
日本とアメリカの関係性ということですね。
現在もその関係性はまったく失われているわけではありません。
むしろ複雑にねばつく関係性であるようにも感じます。
私などが簡単に理解できるわけもありませんがこれら二つの日航機事故(事件)はそれらを垣間見せてしまうのかもしれません。