ガエル記

散策

『キャシアン・アンドー』その5

無事『アンドー』に戻ってまいりました。

いやなに「登山モノ」は逃げるわけではなし興味がなくなったわけではありません、というかこれからは意識して観ることができます。と言っても「登山映画」がそのまま傑作であるのは稀有でもあるとも気づきました。

求めているのはむしろ本作『キャシアン・アンドー』の中にあります。

人間が雪山の中でその力を失い、失いながらもなんとかして逃げ延びようとするようにアンドーもまた力を封じられながらもそこから逃げのびようと奮闘する。その闘志を観たくて映画を観ているのだと感じます。

 

むしろ・・・再鑑賞の再開で気持ちが萎えるのではと思っていたのですが観始めたら面白さでいきなりすっかり元通りです。

この面白さは本物でした。

 

しかしなんだろう。なぜこんなに面白く思えるのか。

大した話じゃない。何の意味もないような男たちが囚人として働かされている。とはいえ昔のような錘もなければ鞭打ちもない(電気ショックはあるがとりあえず脅しが多い)食事も睡眠も充分、衛生面も保持されているのは労働家畜として機能させるための配慮だ。

靴を履かせないのはやはり「お前たちは奴隷だ」という人権剥奪に思えます。

 

その男たちが「もう外に出ることはできない。一生ここで奴隷作業をさせられるのだ」という事態を知ってそれまで気弱だった男までが立ち上がる。

ここからのアンドーたちの反逆は凄まじく胸がすく。

 

しかしはっと現実に戻ればこの反逆は私たちにはあり得ないのだと気づかされる。

 

古来から人間はあらゆる手段を講じて生存戦略のシュミレーションをしてきたのだと考えます。

どの道を選ぶのか、進むのか留まるのか引き返すのか、我々は様々な方法を試しどの選択で生存できるのかを実験してきたのだろう。

地球上のあらゆる場所でそのシュミレーションは繰り返され正しい選択を取った者だけが生き残っていく。

その中で日本人は極めて消極的な選択者のひとつなのだろうか。いやその表現は当たってないようでもある。

がここにきて我々日本人というクラスタは依怙地に凝り固まった選択肢に固執しているようだ。

アンドーという名前は日本人的だと前に書いたが彼の精神は日本人とはかけ離れている。

やはりそういう意味でも『八甲田山』は極めて日本人を象徴する映画なのだと思う。

 

『キャシアン・アンドー』最終回にて登山モノも楽しむ。

登場する魚民(?)もたぶん日本的ですね。

しかしこの優しさはどうだろうか。

 

早々に『キャシアン・アンドー』に戻れてよかった。