ネタバレしますのでご注意を。
五巻冒頭、武田勝頼の話から始まる。
戦国時代の名将のひとりに必ず挙げられる武田信玄も息子はその威力を持てない。
今川義元と氏真、家康と信康の例をここで挙げられているが織田信長と信雄そして横山作品『三国志』でも曹操とその息子、玄徳のその息子の対比がある。
(その中で呉の孫親子と兄弟は特別に変わっている存在だ)
駄目息子のパターンも「何もできない」場合と「やりすぎてしまう」場合があるようで勝頼はやりすぎてしまった。
とはいえこの後織田信長のやりすぎ行動が描かれる。
信長が光秀を苛め抜いた話だがさほど戦国ものを読んでいない私でも信長対光秀のエピソードはここに描かれたことだけでなく数多くあることを知っている。明智光秀という人は優秀な人だったと聞くのにどうしてあんなに信長に嫌われたのか。相性が悪かったということになるのか。
本作でも横山氏の筆は信長よりであって光秀に対して好意をもっていないように思える。信長の男前に対し光秀の細い線で描かれた神経質そうな顔立ちにそれが現れている。
そして光秀の謀反は使者による家康への報告という形で描写される。
本作で光秀は信長の命で家康への歓待役をおおせつかるがその仕事ぶりが信長の意に添わないとして激怒され、今度はまだ奪ってもいない敵国を褒賞として与えるというそのあまりの無体さに光秀が謀反の決意をするのだ。
家康自身はまさにその接待を受けている途中であった。光秀が用意した豪華な客邸に泊まり三日間の饗宴を受けその後堺・京を見物して回る旅を楽しんでいる道中で信長討死の報を受けたのだ。
家康一行は急ぎ帰国するがその途中で一揆の群れに襲われる。ここで家康は落ち着いて一揆首謀者らの怒りを削ぎ逆に平伏させ道案内をさせるというユーモアあふれるエピソードになっている。
家康一行は宇治田原の山口藤左衛門の館に倒れこむようにたどり着き用意された食事を手づかみで食しすぐさま旅立った。
そこに待ち受けていたのはさきほどの一揆の群れの一人大石村の孫四郎と伊賀者の柘植三之丞だった。この先には織田家を怨み明智光秀に加担するという伊賀・甲賀衆が待ち伏せしているというのだ。
彼らと二百あまりの伊賀衆に警護されながら家康一行は先を急いだ。
道ながら家康は孫四郎に「なぜ頼みもしないのに伊賀衆のもとに駆け付けたのか」と問う。
孫四郎は「お館様が優しかったから」と答える。「戦えば勝っていたかもしれない」
家康は「それなのに戦わなかったのは後が怖いと思うたのか」
「はい。あの時お館様を討っていたら勝って負けになります」
優しい方を殺して酷い人に天下を取られたら農民どもは一生泣き続けねばならない、というのだ。
そしてこのようになった。道理というのは強いものだと孫四郎は言うのだった。
とはいえこの伊賀越えは家康にとって三方ヶ原に次ぐ危機であった。
隙を見ては野盗が一行に襲い掛かりその度に死地を脱した。
やっとの思いで伊勢の白子浜にたどり着き海路をとって三河に帰ったのである。
この時、秀吉は備中にいた。
六月三日、高松城を攻めていた秀吉はここで信長討死を知り子供のように大泣きした。が、気を取り直し「わしの力で戦のない世を作り出してやる」と叫び官兵衛に命じる。「城主清水宗治の切腹を条件に講和を結べ」
秀吉はそれを見届けるや疾風の如く姫路城に引き揚げ六月八日夜に到着し二万の軍勢を立て直し弔い合戦を大義名分に京へ向かう。
十三日には加勢した四万の兵で明智光秀に迫ったのだ。
光秀は勝竜寺城に立てこもったが再起をはかるため坂本城へ帰ろうと脱出した先で暴徒と化した領民に討たれた。
家康は東方のそなえを第一として安土城に立てこもる光秀の女婿明智弥平治に兵を向けた。ここで家康は光秀の死を知る。それから間もなく秀吉からの使者が訪れ上方の事すべて解決したとの報告がされる。これを聞いて家康は「安土攻めでは残念ながら筑前殿に先を越された」と告げて帰国する旨を伝えた。
家康はゆったりと織田信雄と連絡をとりながらも秀吉が自分をどのように見ているかを観察していく。
柴田勝家は羽柴秀吉に追撃され自害し、妻のお市の方も良人のあとを追った。
これに家康はお祝として「初花の茶壷」を贈ることにしたのだった。
その使者には石川数正が選ばれた。