ガエル記

散策

『宇宙船レッドシャーク』横山光輝 その1

1965年少年ブック掲載

第八宇宙学校を一番で卒業した少年一色健二。宇宙空軍一〇一基地に赴いた彼の成長と活躍を描く。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

65年作品で表紙の絵柄からしてもあまり期待せずに読もうと思っていたのだけどとんでもなかった。これは凄い作品なのでは。

 

有能でかつ明るく真面目な一色健二。決して挫けず前向きでたのもしい。今ではギャグでなければほとんど見ることができないキャラではあるけど物語が面白いのでむしろこのキャラが望ましいのだ。

現在の感覚で言えば描写技術は稚拙に見えてしまうかもしれないけど最も欲しいのはアイディアとプロットであり横山光輝氏のそれは何物にも代えがたいものがある。

 

普通のモノクロ画面で始まったのに途中でカラーぺージのプレゼント。

おおっ。岡田斗司夫氏から聞いた「昔のロケットはチェック柄だった」の言葉通りだ。かっこいい。

 

一色は同じく宇宙空軍基地でパイロットテストを受ける仲間に会い連れ立ってロケットの着陸を見に行く。

ここを読んですぐブラッドベリの短編小説『ウは宇宙船のウ』の一編「「ウ」は宇宙船の略号さ」を思い出した。

その小説は一色君のようにクラスで首席の少年クリストファが宇宙船に憧れていつも友達と連れ立ってロケットの打ち上げを見に行くのだがあまりにも憧れすぎてついに宇宙航行局に入る、というだけのごく短いシンプルな作品である。

ブラッドベリはその短編で15歳の少年がどれほど宇宙に憧れているか宇宙船乗組員になりたいのかだけを語って終わっているのだけど本作『宇宙船レッドシャーク』はまるでその主人公クリストファが宇宙航行局に入ったその先を描いたかのように思える。

 

横山氏は『ウは宇宙船のウ』を読まれただろうか。きっとそうに違いない、と思うと嬉しくなる。

クリストファを一色健二に変えてその後の活躍を描きたくなったのでは勝手な想像をしてしまうのだ。

 

『ウは宇宙船のウ』の「「ウ」は宇宙船の略号さ」は萩尾望都氏によってマンガ化もされている。

是非そちらも読んで欲しい。

 

今回はほんの冒頭のみの感想になってしまった。

しかも勝手な妄想なのだがどうしても書かずにおれなかった。

『忍法十番勝負』「十番勝負」横山光輝


忍法十番勝負』(にんぽうじゅうばんしょうぶ)は、日本漫画短編集。秋田書店の月刊漫画雑誌『冒険王』1964年(昭和39年)新年特大号から10月号にかけて連載された、10人の漫画家によるリレー方式のアンソロジー漫画である。(wikiより抜粋)

wikiにも書かれているが(記載より9年経っているが)新刊購入できました。(デジタル化なしのため紙の本購入しました)

 

実は読んだのは少し前だったのですが横山氏と白土氏以外の作品をほぼ読めずしかし読まねばならないかなと思いながら日が経ってしまいました。

このままでは記事が書けないので両氏のみの読後で書くことにしました。

そもそも私が今まで読んでなかったのに横山マンガを読み始めたのが他のマンガ作品が耐え切れず読めなくなってしまったのになぜか横山マンガ(と他数人の作者のがありますが)だけ心地よく読めてしまうから、だったので他マンガ作品を読むのがかなり苦行です。

なので他作品による物語の運びについてはまったく書けませんがご了承願います。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

とりあえず表紙裏に

大阪城のぬけ穴の絵図面をめぐって忍者対忍者の血で血を洗う、せいさんな死闘が展開された。この血の記録を、一流マンガ家の連作でつづったのが「忍法十番勝負」である」

と記載されている。ありがたい。

 

せっかくなので「七番勝負」の白土三平も少し。

ぱらぱらと他の作品と比べてもまるで違う次元からもしくは未来から来たのかと思うほど作画がまったく違うので驚く。まだ劇画にはなっていないマンガタッチの絵なのだけど動物も人間もその線その動き他作者とは異なる世界で描いているとしか思えない。

特に動物を描かれてしまうとその力量が格段に違ってしまう。とはいえ内容が今の動物愛護精神からすると拒絶されるものではあるがだいじょうぶ人間に対してはもっと酷いから。

 

さて本命「十番勝負」

申し訳ないけど白土三平を排除してしまえばやはり他作品を圧倒している。

忍術はこれまで読んできた毒物や催眠術(というのか?)とそれを解くための自傷などを駆使した忍者対決を堪能できる。

特に孫の千姫を助けたい一心で抜け穴を見つけたいという家康の願いによって忍者たちが命懸けで戦っているという仕掛けに愛情と哀愁様々な思いが交錯する。

後に横山氏が描く『徳川家康』という長編をも思い起こさせる。

 

その描写に「矮小化」などという評価は的外れとしか思えない。またストーリーが思いもよらぬ方向にいくからこそ連作をする面白さがあるのだと思う。

 

とはいえ「連作」というイベントはマンガ家諸氏には辛い作業としか思えない。どうしても「物語になっていない」という奇妙な評価が出てしまうだろうからだ。

むしろもっとヘンテコな作品があっても良さそうなものだけど・・・協調性を守る人種だからかなあ。ふざけるな、って怒られそうだし。

二大巨匠だけが道を外れても許された、ってことなのかもしれない。

 

 

『邪神グローネ』横山光輝

横山光輝作品タイトルを眺めていて気になったのだけどebookにはなかったので古本『セカンドマン』(大都社)に収録されているのを見つけて購入しました。おかげで『セカンドマン』を紙の本で読むことができますw

となると気になるのは例の場面!「もしかしたら裸のままの場面が見られるのでは」(いやそれほどじゃないんですけど)と邪な(こっちが邪心だ)考えですぐにチェックしたのですが「げえっ」なんと逆にデジタル本ではあったまさに裸の場面が削除され巧妙な手口でつなげられておりました。(いやあの時ひらさんがそう教えてくださっていたはずですがこの本がそうだったのか)

やはり邪心を持った人間は痛い目を見ます。

 

いやいや今回の本命は『セカンドマン』の少年の裸じゃなくてあくまでも『邪神グローネ』ですよ。

ではネタバレしますのでご注意を。

 

 

『邪神グローネ』(1977年「小学6年生」掲載)

冒頭1978年明神礁の海底火山噴火から物語が始まる。

横山作品、島の火山噴火設定やたら多いなと今頃になって検索したら1973年に西之島噴火とあってこういう実際にあったことが作品の手掛かりになってるんだなと改めて感心したりする。

美しいマーズが噴火した島に立ってる構図は印象的だった。

本作では美少年ではなく、蛇が生えているような頭がふたつ重なっている不気味な神像が発見される。

それが表紙の少年の背後に在るものだ。

少年の名は春彦。年齢は掲載誌から小学六年生11~12歳と思われる。

父親がその「発見された神像」を保管している博物館の館長で年齢もそれなりに高そう(50代ではあるだろう)でかなり年を経てからの子どもと察される。それもあってかすごく可愛がってる様子だ。

父子が食事に行こうとすると神像の前で熱心に観察している男がいた。

名を須本というその男は館員で悪魔を信じており悪魔の蔵書に関しては学者顔負けだと館長である父親は説明した。

 

須本は蔵書を読みこの神像こそ「邪神グローネだ」と確信する。台につけられた封印をはがし四人の生き血を与えれば悪魔としてよみがえると知った須本は真夜中博物館に戻り封印となっている文字盤をはがし始める。

その様を警備員に見つかってしまった須本は「これをはがして学者に調べてもらうと命じられていたのを忘れていた」と巧みに嘘をついて警備員に手伝わせる。

ついに文字盤が外れ神像の目が光る。

 

翌朝館長は急いで博物館へ入った。ふたりの警備員が殺害され一滴も残らず血液を失っていたのだ。

須本はその様子を伺い皆が去った後に邪神グローネに「あなたの忠実なしもべになりあと二人の血を捧げます。私に魔力をお授けください」と願うのだった。

 

館長は自宅で届いた手紙を読んでいた。

春彦の問いに答える。

エジプト博物館のアルハザード博士から「これは邪神グローネではないか」と返事があったのだ。しかしそれ以上の詳細を知るためには「メコロニア」という地球上に一冊しかない本を見つけるしかない。

館長はそれをどこかで見たという記憶があったが思い出せない。

春彦は「学者顔負けの蔵書を持つという須本さんのところでは」と助言する。館長はすぐさま須本の家に向かう。

 

無論この後館長は須本に襲われるも命はとりとめ(グローネに生き血を与えるために殺さなかったのだろう)父親を心配して須本の家に来た春彦に呼びかけられて目を覚まし警察を呼ぶ。

 

おもしろいのは悪魔の力を切望する須本だ。ある意味デビルマンになりたがっている男なのだが悲しいかなグローネが生贄を待ちきれず須本の生き血を吸い始めてしまうのだ。

そこへ到着した館長と春彦。文字盤で封印しようとした館長はグローネに阻止されてしまい春彦に文字盤を託す。

グローネの頭の蛇に「それ以上近づくとお前の命はない」と脅されながらも文字盤を台座に張り付けた。

 

館長は息子の勇気を褒め称え邪神グローネをしっかり封印してコンクリート詰めにし元の深い海に沈めることにした。

(沈めるために海に運び出された、というところで終わっているのが巧い。続編が描ける先生)

 

ううむ。これは横山版少年の『エクソシスト』というべきか。

エクソシスト』(1973年)(これも73年か。噴火と言い悪魔と言い)も出だしが悪魔パズズイラクで見つける場面から始まる。

悪魔との戦いを予兆させるのだ。

映画『エクソシスト』では少女が悪魔にとりつかれてしまうが横山版は少年が悪魔を追い払う。微塵も怖がらず突き進むのがたのもしい。

そう言えば私も子供の時に『エクソシスト』を観て「もっときっぱりやっつけられないものかな」と不満に思った。(いや今ではそんなことできないと思うよ)(すばらしい映画です)

子どもだからこそ突き進めてしまうのかもしれない。

 

『邪神グローネ』キリスト教徒とは違う切りこみであり戦い方になるのだ。

 

 

 

 

『野獣』横山光輝

なにこのかっこよさ。表紙、立っているだけなんだけどかっこいいという。

でもやはり横山先生は叩きのめされる男が好きなんだよ。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

1970年週刊プレイボーイ

東大寺邦男。めちゃくちゃカッコイイ男なんだけど今このカッコよさはコメディとなってしまうんだよなあ。70年当時はその感覚があったのかどうか。

しかしそういう現代人の目で見てものめり込んで読んでしまう面白さがあった。

 

恩赦により二年間で出所できることになった主人公・東大寺邦男。

出所していきなり「しゃばか」に吹き出す。せめて「シャバか」にしてほしかった。

大体シャバってなんなのだ。

 

なぜ「しゃば」というのでしょうか?
娑婆しゃばサンスクリット語Sahāに相当する音写。 われわれが住んでいる世界のこと。 saha は<忍耐>を意味する形容詞。 西方極楽世界や東方 浄瑠璃世界 じょうるりせかい と違って、娑婆世界は汚辱と苦しみに満ちた 穢土 えど であるとされたため、< 忍土 にんど >などとも漢訳されている。

(東方浄瑠璃世界が気になる)

さらに

娑婆は、「サハー」という原語の発音を漢字の音を借りて置き換えた音写語である。 「サハー」には、その意味を表す「忍土(にんど) 」という意訳語もある。 忍土とは、「苦しみを耐え忍ぶ場所」という意味である。 そのあまりに露骨で身も蓋もない意味が人々に嫌われたのであろうか、こちらの方はあまり使われてこなかった。(大谷大学より引用)

ふええ、勉強になった。冒頭でこんなに躓いていてはいかん。

 

うんいや横山氏はちゃんと最初からこの男はカッコつけているだけでカッコ悪いんだということを描いてるんだと思う。本作で一番ほんとうにカッコいいのは東大寺に惚れ込んでずっとついていく女・美紀なんだよね。

男性向け横山作品の多くで女性は活躍しないままなのだが本作で忠義心持ち何とかして愛する人を救おうとするのは美紀だけなのだ。

いっぽう主人公の東大寺は腕利きでもあり自分こそが賢いというプライドを持っている。美紀を都合よく利用しているつもりだが実は助けられているということに気づいていない馬鹿な男なのだ、と横山氏は描いている。

 

レビューに「主人公がかっこいいのにすぐやられるのがカッコ悪い」というのをみかけたのだけどいや横山光輝は他の作品でもカッコいい美形男性(男子)が痛めつけられてるのばかり描いてる。美形男性(男子)をいたぶるのが好きなのに決まってるではないか。

ちなみに美女のほうは少しいたぶったら止めがはいったよ。ううん、興味がないんだね。

なので本作かなりのコマで東大寺が苦悶の表情を浮かべている。

描きたくて描いてるのに決まってるのだよ。

 

このへん、昨日書いた『偽りの偶像』と同じ動機なのである。

って傷を負った野獣が一番かっこいいんじゃないか。

 

後半、東大寺が大阪に移動しての物語になっていく。

組長の関西弁がめちゃくちゃ良い、のは当然だった。横山先生神戸の方だった。

考えたらクリエイターというのはほぼ生まれつきの言葉ではないいわば後で学んだ外来語(?)で作品を作らねばならないなと改めて思う。

日本で言えば関東というか東京地区でなければどうしてもそうなるんだよな。

手塚治虫氏もそうだけど横山氏ももっと関西弁作品があってもよかったのでは、と今更。

とにかく本作で関西弁はとても良い仕事をしてる。

 

さて東大寺は目的の五億円の宝石に近づいていく。

美紀はひたすら忠実に東大寺を守っていくのがいたいけである。

東大寺が言う「ダイヤを取り戻したら一緒に外国で暮らさねえか」の一言にすがる姿がいじらしいではないか。

 

ラスト、小島での銃撃戦から美紀が助けに向かうところ、読み応えある。

しかしここ

船頭さんがもう殺されているから「頼むぜ岸までってくれ!」じゃないかと思うんだけどなあ。

 

美紀が助けにきて(しかも自己判断で)あと少しというところで東大寺は撃たれダイヤと共に海底に沈んでいく。

ダイヤを求めて飛び込む炎組を見ながら美紀はひとり戻っていく。

 

哀れな東大寺を思いながら美紀は砂浜を歩き去る。

 

とても良くできたピカレスクロマンだった。頭の中で自然に映画化されてしまった。

あんまりよくできていて壊れた部分がないのが物足りないほど。

確かにそれを思うと『闇の顔』は変な話なんだけど変なところが心に残るのかもしれない。

 

東大寺を見てるとどうしても呂布を思い出してしまうなあ。

三国志』世界では忠義の心、男同士のつながりを大切にする心がなければ英雄としての価値がない。

しかしこうしたピカレスクロマンとしてなら呂布は主人公たりうる。

しかしそれでも東大寺より美紀の忠義心に感動してしまうのは横山先生がやはり忠義の人が好きだからなのではとも思う。そういう意味では美紀の方が「男」だったんだよなあ。

現在の価値観ではそういう言い方もダメなんだけど。

つまり人間として東大寺はつまらない男だったし、美紀はより大きい存在だったってこと、なんだ。

 

 

 

『横山光輝短編コレクション』Vol.5「偽りの偶像」

キックボクシングの選手の物語。

何故キックボクシングなんだろう。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

多胡原健児はキックボクシングクラブに入って一か月目で会長の目に留まり将来を嘱望される。

一気にスター街道を走っていく姿を恋人の由美は寂しくも見守っていた。

ところがチャンピオンになった多胡原は近づいてきた美女梅原悦子との情事にはまりこんで由美を忘れてしまう。

得意の絶頂にいた多胡原はある日会長に次の試合で新人に負けて欲しいと頼まれる。「マスコミをにぎわすスターを我々は作り出さねばならん」

多胡原自身もまた「作られたスター」にすぎなかったのだ。

会長の指示に従わなかった多胡原は以前のチャンピオンと再戦をする。

が、この試合では多胡原は完全に打ちのめされてしまうのだった。

 

主人公の名前が「多胡原」というのは元ボクサーで俳優になった「たこ八郎」氏からなのかな。とはいえたこさんは凄いボクサーだったので多胡原とは真逆なんじゃないかなと思うけど。

チャンピオンになって思い上がった嫌な男を描かねばならないのだけど横山氏が描くとそこまで嫌な奴になってない気がする。

というか「表紙の叩きのめされた男」を描きたいがための作品だったのではないか。

ボロボロになった男、が好きすぎる横山氏。

というか横山先生が描くボロボロの男が好きだ。(私が)

 

『横山光輝短編コレクション』Vol.4「闇の顔」

これは先日江戸川乱歩原作『白髪鬼』に同時収録されていた作品(すばらしいカップリング)ですでに記事にしましたが、横山作品の中でも特に語りたくなる内容なのでもう一度ここに書いてみようと思います。

 

 

ネタバレしますので注意を。

 

 

以前も書いたけど江戸川乱歩原作を作画した『白髪鬼』自体素晴らしい作品だった。美しいルリ子を間にしたふたりの美青年の愛憎劇といういかにも乱歩特色の強い物語をマンガ作品に落とし込まれていてもともと乱歩好きな私にとってこの上なく満足いくものとなっていた。

ところが横山氏はその一年前に本作「闇の顔」を描いているのだ。こちらは明らかに『白髪鬼』を下敷きにしたオリジナル作品といえる。

なんとも不思議な経緯ではある。

 

ところで昨日の『偏愛』では年配の家政婦とその家のお嬢様という女性同士の過多な愛情という題材が描かれていたのだけど本作では弟の兄への強い思慕が描かれる。

作品としては原作を踏襲した『白髪鬼』のほうが起伏に富んで面白いけどやはり『闇の顔』のほうが横山光輝味が濃厚に味わえるのだ。

 

gaerial.hatenablog.com

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上のリンク先にひらさんから見せていただいた本作のもともとのカラーページが見られる。横山先生の意気込みが感じられる。

 

 

『横山光輝短編コレクション』Vol.3「ぶっそうな奴ら/偏愛」

横山光輝作品で珍しいセクシー美女表紙です。思いっきり峰不二子風ですなあ。

物語はふたつ。

表紙は1話目の「ぶっそうな奴ら」のものです。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

「ぶっそうな奴ら」(1969年週刊プレイボーイ

そして中身もやはり峰不二子風&ルパン三世風作品であった。

警備会社の現金輸送車を襲う強盗団の話なのだ。

計画を立てたのが不二子風セクシー美女のマリでその相棒となった男が指示を出していく。

ふたりが見込んだ腕利きを集めて強盗団を作り計画を実行する。

これも60年代後半当時流行った一種の冒険ものなのだ。

 

主人公はとりあえず山崎五郎という男だろう。女を抱いては金をもらっているという「ケチな男」だが運転技術だけは一流中の一流(自己申告)でそれを見込まれて強盗団に加わる。他もルパン三世や多くの銀行強盗話に必要な腕利きメンバーが揃えられる。

 

とはいえそこは横山光輝なので軽みは少なくじっくりと進んでいくのが逆にちょっと面白い。

不二子的セクシー女性役のマリもやたらと薄着で体の曲線を見せびらかしてはいるものの相棒の男とどんな関係かすらも判らず何らかの場面もない。強盗の理由もその会社が父親の死を軽く見たための復讐という重いもので「おふざけでやっちゃおう」みたいなノリがない。しかも高みの見物じゃなく彼女がかなりの割合で働いているのだ。男たちが命懸けで奪ったものを横取りしていく、という女じゃないってのがちょっと悲しい。

 

この計画自体をどうこう言ってもしょうがないんだけどあの細い山道を進む計画を立てたのはどう考えても納得できないんだよなあ。まあまあかつてのこうした冒険アクションものというのはそうした穴だらけの設定なんだけど雰囲気だけを楽しむものだった、と思うしかない。ハラハラドキドキさせるのが目的なんだよな。

で、現金輸送車を強奪したものの雨になったせいで地盤が緩み細い山道を進むことができずボスの男は「五郎、車をおっことしな」というのだ。

車は崖下に落下し燃え上がる。

ボスは皆に「こんどもっとうまい話をみつけてくる」と別れを告げるのだった。

金は手に入らなかったけど誰かが死ぬわけじゃなくやっぱりハラハラドキドキが目的の冒険ものなんだろうな。

 

 

第2話

「偏愛」(1969年8月号ファニー)

「ファニー」ってなんぞやと思い検索しました。1969年に創刊した少女向け雑誌で1970年には編集長の急死(!)もあって休刊。もともと売れ行きが芳しくなく虫プロ商事の倒産の原因の一つともなったと書かれており「げえっ」となった次第。

休刊後に「月刊ファニー」となるのですが本作は「ファニー」だった時に掲載されているようです。つまり少女マンガ作品という位置づけでしょう。

「ファニー」&「月刊ファニー」には手塚治虫石ノ森章太郎永井豪あすなひろし小島剛夕ジョージ秋山松本零士から牧美也子みつはしちかこ岡田史子水野英子山岸凉子竹宮惠子大島弓子矢代まさこなどなどそうそうたるメンバーが執筆していてちょっと豪華すぎる気もする(それが原因か?)(青池保子の単行本未収録というのもあるよ)

そんなマンガ誌に掲載された本作であるがこれがまた横山作品としては稀有な存在なのではないのでしょうか。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

冒頭、電車からひとりの老女が降り立ち「ばあちゃんここだよ」と迎える男の子がいた。

老女は美しい女性に声をかける「まあおじょうさま」

「おじょうさま」と呼ばれた女性は老女を「かね」と呼ぶ。

この1ページのやりとりで老女と若い女性の関係性がすっかりわかってしまう。なんという上手さ。

 

が、その後の老女のモノローグで「おじょうさま」がかわいらしいけど残忍な性格だったと知らされる。

おじょうさまは小動物を無惨に殺しては喜ぶような少女だった。

八つになった時、おじょうさまをひどくいじめたわんぱく坊主がその翌日に池でおぼれ死んだのだ。

 

そして18歳になったおじょうさまは変な男と恋をしてお父様に怒られた。父親はその翌日事故死したのだった。

さらにその男がやはり悪い男だとわかりヒ素で亡くなってしまった後、かねは暇をもらったという。

 

そのおじょうさまが今は化学博士と結婚して暮らしていると聞いたかねは心配になりおじょうさまの家を訪問するのだった。

 

化学博士が劇薬を使用して実験をしていると聞きサスペンスは高まっていく。かねはおじょうさまを止めることができるのか。

そして不安に満ちたかねの表情が実は彼女自身の殺意からくるものだったと最後に読者は知らされる。

語りがかねからおじょうさまへと変わり実はこれまでの事件の説明は「かねが思っていたもの」であり実際はその裏返しになっていたのだと気づかされる。

 

こうしたサスペンスストーリーは女性好みだと横山氏は思っての作品でしょうか。

私自身も大好きで文句なく楽しみました。

いろいろと思い浮かべる作品はあるでしょうが私がすぐに浮かんだのはデュ・モーリアの『レベッカ』です。

今はもういない美しいレベッカを慕い続けていた家政婦という小説ですがヒッチコックの初期作品となっています。横山氏はヒッチ映画というのもあって観ておられるのでは。(私自身が映画は観てないのでそっちの内容はわかりかねますが)

男性向け作品ではほとんど女性が出てこないのに女性向けマンガで女性を描かせるとこんなに唸ってしまう作品を描いてしまう横山先生。やはりふたりいて欲しかったなああ。

とはいえそれは無理で仕方ない。

この路線は山岸凉子先生がしっかり受け継いでくださっています。

様々な後継者がいる横山光輝先生です。